ささやんブログ

"いま"を醸していく

正解という幻想

 

先日、朝から法定調書の書き方を教わりに税務署へ行ってきた。「法定調書って何?」という人も多いと思うけど、そういう人はぜひ自分で調べてほしい。たぶん調べてもよく分からないはず。

 

 

 

税務署の近くですれ違った高校生の男の子。若井おさむが痩せた感じの雰囲気であるが、とにかく覇気がない。しかしボンバーヘアである。

 

そう、アフロ。

 

覇気のない痩せこけた若井おさむがアフロヘアー。なんというバランス!

 

そんな顔とアンバランスな髪型に目を奪われていたのでつい見落としそうだったのですが、その彼は

 

 

 

この真冬の真っ只中に

 

 

 

 

 

 

 

半袖のワイシャツ一枚で通学していた。

 

 

 

思わず3度見した。間違いなく半袖のワイシャツ。長袖を折っているわけでもなければ、インナーに長袖を着ているわけでもない。

 

 日本長袖協会に対する反骨心でもない限り、この真冬真っ只中に半袖1枚で通学はちょっと考えにくい。彼は外国人なのか?

 

ちなみに外国人が冬でも半袖なのは、筋肉量が多くて体温が高いからだとか言われてるらしい。それって筋肉の問題か?

 

そして今はそんなことはどうでもいいこと。痩せこけたアフロ若井おさむに筋肉の話は関係ない。

 

そもそも「なぜ外国人は冬でも半袖なのか?」を知ったところで、僕たちが半袖を着れるようになるわけではない。そんなことより、ただ「半袖でいく」と決めれば、半袖で外に出れるわけですよ。

 

 

 

そう

 

アフロ若井おさむ少年のように!!

 

 

 

 一度決めれば、あとはそれを実行するだけ。僕も高校3年生の時は「半袖短パンで体育をやりきる」と決めていたので、真冬の外の授業でも半袖短パンでやっていました。鳥肌以上にクラスでの浮き具合が全開だった。

 

 

 

没頭するということ

他人から何かを言われないかとか、他人の目を気にしたりというのは多くの人が経験することだけど、その時に必ず起こっていることがある。

それは「そのことに没頭していない」ということ。

 

 

周りの目を気にしたり言動に左右されているうちは、そのことに「集中」できていない。

子供の頃はよく外で遊んでいると親から「いい加減もう帰って来い!」と言われたり、ゲームをしていれば「もうご飯だからやめなさい」と言われたもの・・

 

 

しかし、その時に皆さんもこう言ったはず。

 

 

「あと5分!」

 

 

その時の「もうやめなさい」といった周りの声に対しては、皆さんはただ「うるさいから黙っていて!」といった気持ちになったのではないでしょうか。

そしてそれほど時間が経っているという自覚もなく、 気づけば「もうこんな時間なのか!」と驚いたものでしょう。

 

これは子供の頃だけでなく大人になっても起こる現象である。

テレビや映画を見ている時、読書している時、デートしている時・・

何かに没頭している時というのは、それこそ没頭しているわけなのだから周りの目や声は気にならない。何か言われたところで「うるさいなぁ」と思うわけで、自分はそれを楽しんでいるんです。

 

つまり、周囲の目や声が気になっているうちは、自分はそれに没頭していないということ。そしてそういう時はだいたい「正解探し」という幻想に思考が引っ張られている状況なのである。

 

 

正しさとは何か

正解探しとはよく聞く言葉であり、僕たちの思考はこの「正解がある」というように教育されてきている。それは学校の試験を見ても一目瞭然。

海外の学校の試験は自由記述問題なども多く、皆バラバラな回答をしていても問題の意図に沿った回答であれば正解としてもらえるらしい。しかし日本はどうか?日本の試験の多くは「正解は1つ」であり、模範回答から外れた答案は「間違い」であり、それによってテストの点数がつき、成績が決まり、人生が決まっていくということが往々にしてあるのではないか?

 

 

そこに「考える力」は関係なく、暗記的に正解を覚えて行くことに意味があるというような教育だと感じる。

もちろんテストで高い点数を取れるということは、それだけの努力を必要とされる。なのでテストの点数が高い人=努力できる人という図式はある意味成り立つのかもしれない。

 

しかしその努力の方向性というものが「正解があるという前提」で成り立っているからタチが悪い。このような教育を受けていれば、そりゃ人生を歩んでいく判断基準が「正しさ」という尺度を用いることになっても不思議ではないし、優秀な人間ほど正解という幻想に囚われがちになるのではないか。

 

 

 

 

 

皆、「自分がどう思うか」よりも「一般的には何が正解なのか?」を優先してしまう。自分の感性よりも、よく分からない「普通は」とか「常識的には」といった尺度で物事を選択してしまう。日本人は「空気を読む力」があるとか言うけれど、それって要するに「自分の思ったことを押し殺す教育」の結果なのではないかな。

 

 

真冬に半袖でもいいじゃん。たしかに寒いかもしれない。だけど真冬でも半袖で過ごすということを決めたのはアフロ若井くんなのだから。

 

彼の人生は彼が歩んでいるのであり、彼が決めた通りに行動するべき。

 

そしてその彼をみて「えっ、寒くないの?」と思うのは僕であり、それは僕の勝手であり、僕の感じ方だということ。ただそれだけのはず。

 

 

相手に何か意見を言うのも、注意するのも必要なこと。「そんな格好じゃ寒いでしょ!」と言っても構わないと思います。

 

その時、その言葉をどのように受け取るのか?結局は自分の選択なのです。

 

「そっか、この格好じゃ寒いのか」と思うのか

 

「いや、別に寒くない」と自分の感覚で生きるのか

 

「寒いけどこの格好で過ごすと決めてる」と言い聞かせるのか

 

そこに正解などなく、自分自身の美学があるだけなのだと思うわけです。

 

 

若井くんが日本人であるならば、日本の未来はまだまだ明るい。