ささやんブログ

"いま"を醸していく

原因論・目的論

こんにちは。ささやんです。

 

先日、10月14日に僕らの運営する法人でセミナーを開催しました。

【妊娠・出産から始まる乳幼児期の発達とアプローチ】

 

講師は福岡県で開業されている助産師の古賀ひとみ先生

(ブログなどで非常に有益な情報発信をされています)

 

www.lactea-mw.com

 

ameblo.jp

 

このブログを読み、一度まずはお話を聞いてみたい!!と思い、講師依頼をしてわざわざ東京までお越し頂きました。

 

そんな貴重な機会であったためか、セミナー参加者には理学療法士作業療法士のみならず、整体師、助産師、そして歯科医師など多岐にわたる職種の方々に集まっていただいた。

北海道からの参加者もいたほどであり、やはりこの内容(とにかく知識の幅が広く、そして臨床に即していて深い内容)をお伝えできる先生は古賀先生しかいないのではないかと思わされる。

 

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(実際に赤ちゃんへの介入デモも見させていただきました。一瞬で変化する!) 

 

 

 

 講座の詳しい報告はこの記事ではしませんが(というか情報量が多すぎて整理が追いつかずできません!)

 

この講座を受講しての僕個人の率直な感想は「自分、まだまだ何も知らないし全然向き合えてなかったなぁ」というものだった。

 

 

それだけ多くのヒントをいただけたし、また古賀先生の在り方に学ばせていただいた。

 

 

 

原因論・目的論

 

いきなりですが本日の記事タイトルにもあげたように、物事を考えるときにはよく原因論「目的論」が引き合いに出されます。(元々は心理学用語だと思いますが、最近では日常的に用いられてるのかな?)

 

原因論とはフロイトが提唱した「今の状態があるのは、過去に原因があるから」というもの。

 

目的論とは「嫌われる勇気」で一躍有名になったアドラー心理学の考え方。「今の状態があるのは、何らかの目的があってその状態になっている」というもの。

 

 

 

僕は理学療法士になった時、原因論的な考え方が非常に重要であると考えていた。

それは整形外科クリニックという環境で働いていたこともあり、例えば「膝が屈曲拘縮している」という現象は、何らかの原因があって膝が屈曲拘縮していると考えなければ、短絡的に膝を伸ばすアプローチのみをしていても良い変化は得られないからである。

原因論的に、起きている現象に対して「なぜ?」「どうしてその現象が起きているの?」ということを考えながら、原因追究をしながら新人時代は臨床に取り組んでいた。

 

 

 

しかし6年目の時に今の職場も変わり(また整形外科クリニックには変わりないけど)担当する患者さんの層も少し変わってきた。

ここではペインクリニックもあり、慢性疼痛と呼ばれるような心理社会的要因が複雑に絡んだ患者さんを担当する機会も出てきた。

そうなると原因論的な問題点探しでは、患者さんの抱える「痛み」は解消されない。むしろ悪循環に陥ることがあると気付かされた。

 

この負のループに陥らないために必要な考え方が、目的論的な考え方ではないかと思わされた。それはつまり「痛み」は結果ではなく、手段なのではないかということ。

 

これまでは「なぜ」痛いのか?を考えて原因から治すことばかりを重視していたけれど、そうではなく「どのように」痛みと向き合いながら今より少しずつでも楽に生活できるようになるか?といった考え方が必要になってくる。症状との向き合い方、それらつまり自分自身の認識世界との向き合い方を変えていくこと。

 

 

リハビリテーションと目的論

僕のような整形外科クリニックで担当する患者さんは可逆的な症状、つまり「治る」症状を訴えて来院される方も多い。

(ここでいう「治る」というのは、「症状に悩まされずに生活できる」くらいに捉えていただきたい。)

 

しかし臨床現場というのは実際はそういった患者さんばかりではない。大きな病院や介護保険下のリハビリテーション現場では、不可逆的な問題を抱えてしまう患者さんも多くいる。脳卒中の後遺症などは現時点では治すことが難しい症状である。

そう言った場合は、現在の身体の機能でいかに「自分らしさを」を取り戻していくのかが重要なリハビリテーションになる。もちろん機能訓練は大切。治るか、治らないかの二元論ではなく、治らなくても今より身体機能を高めるということは可能であるから。

 

だけど身体機能を高めることに固執しなくても、その状態を受け入れて自分らしさを取り戻していく人も多くいらっしゃる。何が正解のかなんてなくて、その人それぞれの美意識がその人の人生の充実度を決定するのだから、機能訓練をひたすら続けるのも正解だし、そこに固執せずに残存した機能で社会に関わっていくのも正解。

 

リハビリテーションの意味は「全人的復権」である。これはつまり、その人らしく生きることを取り戻すという意味。

 

身体機能にアプローチするのも手段の一つ。

環境面にアプローチするのも手段の一つ。

 

リハ職種に求められるのは、自分の武器や好みの商品を押し付けることではなく、あくまでも「相手」主体でありながら、自分たち専門職が提供できることを提案していくことでもあるのだろう。

 

不可逆的な病気や後遺症には確かに原因がある。その原因を変えることが難しい場合は、原因論的なアプローチには当然限界がある。

目的論的にというか、現在の状況の捉え方を変えていくことがリハビリテーションにおいて重要な考え方でもある。

 

 

原因論はめちゃくちゃ大切

上述したような考えから、僕自身はかなり目的論的な考え方の重要性を近年はずっと感じていた。相手を認める。相手の全てを受け入れ、そこから共に歩むようなスタンスはリハ職種に求められる資質である。

 

しかし、それも度がすぎるとある種の妥協になるのではないか。

やはり現象には原因があることも多い。今、身体機能に問題がある。その問題を抱えたままでも生きやすい社会を・・・というのは非常に大切な観点であるけれど、しっかりと人の身体の構造と機能を学べば、その問題は解決できるかもしれないのである。

 

そんなことを、古賀先生の講座を受けて強く感じた。

 

例えばある身体機能の問題を、その時の自分の知識と技術では改善させることが不可能だと判断すれば、それは自身の中で不可逆的な問題となる。

そうすると身体機能へのアプローチではなく、環境へのアプローチという選択になる。いかにその問題とうまく付き合いながら、その人らしさを取り戻すか?という視点に。

 

その問題というのは、高齢者の場合であれば「変形しているから」とか「高齢だから」とか「基礎疾患があるから」という具合に様々な理由が述べられながら、不可逆的な問題として処理されているケースも多い。

 

そして若い人(子供を含めて)の場合であっても「生まれつき」とか「体質の問題」とか「遺伝」などという具合に様々な理由が述べられながら、個性として処理されるケースも少なくないのではないか。

 

 

僕自身はさすがに「生まれつき」だとか「個性」だなんていうほど極端な考え方はしていないけれど、子供の身体機能が弱いことに関しては発育発達の過程に何か問題があったのだろうという観点から運動療法をメインに行う機会も多かった。

 

しかし古賀先生の講座を受け、胎児期からの影響であったり口腔機能がどれだけ全身の発育発達に影響するのかを知った。体幹機能に口腔機能がこれほど影響するのかと。

これまであまり目を向けれていなかった部分である。

 

「ぁあー、自分、まだまだ何も知らないし全然向き合えてなかったなぁ」

 

その感想は、こう言った経緯から生じたものなのではないかとも思うのです。

古賀先生はデモでも軽やかなタッチでアプローチをし、赤ちゃんの身体機能を即座に改善させていた。

 

 

原因論と目的論は対比されることが多い。

この世の中は様々なものが二元論的に対比され、そして正解を決めたがる。

 

科学は大切だけれど、こうした思考に陥りやすいのは科学を重視する考え方の副産物ではないだろうか。

 

原因論も目的論もどちらも大切。

この言葉を使ってしまう時点で、「どちらか」みたいに選択を迫られてしまうようだけれど、大切なのは相手の状況に合わせて対応できる自分であること。

 

その自分を積み重ねていくこと。

 

まだまだ何も積み上がっていない自分。

そんなことを古賀先生の背中を見て感じさせられました。

 

 

どれだけの努力を継続してきたのだろうか。まだまだ学び続けなければならない。