ささやんブログ

"いま"を醸していく

ストレスと自然治癒力

「なぜ同じような歩き方なのに、痛みの出る人と出ない人がいるのだろうか?」

 

これは僕が理学療法士になって1年目〜2年目の時によく思っていた疑問であった。

当時はバイオメカニクスが大好きで、姿勢分析や動作分析などからメカニカルストレスを捉え、運動連鎖を駆使してメカニカルストレスを軽減させる。そういった思考の枠に患者さんを当てはめながら臨床をしていた。

 

しかし高齢者で膝のスラストが顕著に出現している方でも痛みを訴えない方がいたり、若くてスラストなども大して出現していないように見えても、膝の内反ストレステストでは痛みを訴える人など・・「バイオメカニクス」という色眼鏡で見れば説明はつきそうな人ばかりだけれど、どうも納得がいかないことばかりであった。

 

そんな疑問を胸に抱いていた中で、僕はオステオパシーの哲学に出会った。

きっかけは患者さんを触れている時に感じた「なんかこの患者さんの硬さって自律神経由来な気がする」という、根拠のない直感からであった。

自律神経をアプローチすることはできるのか?いろいろ調べていて、オステオパシーの概念を知った。

 

そうしたことがきっかけでオステオパシーの研鑽にのめり込み、また少しずつ様々な代替医療なども学ぶようになった。多くの概念を知っていくと、「バイオメカニクス」というのは数あるストレスの中の一要因に過ぎないのだという考えに至った。

 

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人はこの世界で常にストレスにさらされている。

その一部を簡単にまとめたのが、上記の画像なのだけど・・・

 

カニカルストレスというのは、要するに重力環境下によって生じるストレスのこと。そのメカニカルストレスという観点を大切にしているのが、僕ら理学療法士の視点なのかなと考えている。

 

他にもストレスといえば、精神心理的なストレスや化学的なストレス、さらには地球環境もストレスになる。

 

人間はこう言ったストレスを常に受け続けている。生きるということは、ストレスに曝されるということである。

 

しかし、ストレスを受けても全ての人が病むわけではない。

人には自然治癒力というものがあり、ストレスを受けても良くなろうという自己調整機構が働いているのである。

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この「お風呂理論」はつまり、ストレスという水浴槽というその人のキャパシティから溢れ出た時に人は症状を発症するというモデルである。

浴槽には常に自然治癒力という排水溝があり、溜まった水を排出している。

しかし何らかの原因で排水溝が詰まってしまったり、また浴槽にたまる水の勢いが増してしまえば、時間とともに浴槽から水が溢れ出すことになるだろう。

 

このように、ストレスと自然治癒力との関係で人は症状を発症したり、またしなかったりするのではないか?ここまで単純ではないだろうけど、モデル化するとしたらこれが現時点での僕の考えである。

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ということで臨床で患者さんの症状を考える時は、この2つの視点から考えると整理しやすいと思っている。

 

ストレスという視点と、自然治癒力という視点。

 

ストレスは、それこそ私たちの臨床現場では「メカニカルストレス」をしっかり捉えられれば、対応できるケースも非常に多い。

 

そして自然治癒力。これには自律神経や血液循環といった視点が重要になり、なかなか理学療法士には馴染みの薄い話かもしれない。

オステオパシーでは自然治癒力を引き出すというのが大きな目的になるため、このような考え方はベーシックである。

 

僕は外来整形外科という場所で臨床をしている。もちろん全ての患者さんを良くできるわけではないけれど、これらの考え方に基づくことで対応できる患者さんの幅は広がることだと思います。

 

運動器疾患を見るセラピストは、バイオメカの視点と、そして自然治癒力についても考えるようにしてみてください◎

 

 そして、12月にこのへんの話をセミナーでお伝えさせていただこうと思います。

 

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12月6日(木)19:00〜21:00

 「姿勢の捉え方と運動連鎖」

体に加わる「メカニカルストレス」の捉え方を基本から学んでいきます。

presentsnpo.wixsite.com

 

 

そして12月16日(日)10:00〜16:00

「自律神経と自己治癒力」

「治っていく身体」を取り戻すためのポイントを解剖生理学から学んでいきます。

presentsnpo.wixsite.com

 

 

かなり内容盛りだくさんなので時間内に終わるか分かりませんが、こうした考え方を持ち帰っていただくこと。そして実技としてしっかり患者さんに作用できるアプローチを持ち帰っていただければと思っています。

 

 

原因論・目的論

こんにちは。ささやんです。

 

先日、10月14日に僕らの運営する法人でセミナーを開催しました。

【妊娠・出産から始まる乳幼児期の発達とアプローチ】

 

講師は福岡県で開業されている助産師の古賀ひとみ先生

(ブログなどで非常に有益な情報発信をされています)

 

www.lactea-mw.com

 

ameblo.jp

 

このブログを読み、一度まずはお話を聞いてみたい!!と思い、講師依頼をしてわざわざ東京までお越し頂きました。

 

そんな貴重な機会であったためか、セミナー参加者には理学療法士作業療法士のみならず、整体師、助産師、そして歯科医師など多岐にわたる職種の方々に集まっていただいた。

北海道からの参加者もいたほどであり、やはりこの内容(とにかく知識の幅が広く、そして臨床に即していて深い内容)をお伝えできる先生は古賀先生しかいないのではないかと思わされる。

 

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(実際に赤ちゃんへの介入デモも見させていただきました。一瞬で変化する!) 

 

 

 

 講座の詳しい報告はこの記事ではしませんが(というか情報量が多すぎて整理が追いつかずできません!)

 

この講座を受講しての僕個人の率直な感想は「自分、まだまだ何も知らないし全然向き合えてなかったなぁ」というものだった。

 

 

それだけ多くのヒントをいただけたし、また古賀先生の在り方に学ばせていただいた。

 

 

 

原因論・目的論

 

いきなりですが本日の記事タイトルにもあげたように、物事を考えるときにはよく原因論「目的論」が引き合いに出されます。(元々は心理学用語だと思いますが、最近では日常的に用いられてるのかな?)

 

原因論とはフロイトが提唱した「今の状態があるのは、過去に原因があるから」というもの。

 

目的論とは「嫌われる勇気」で一躍有名になったアドラー心理学の考え方。「今の状態があるのは、何らかの目的があってその状態になっている」というもの。

 

 

 

僕は理学療法士になった時、原因論的な考え方が非常に重要であると考えていた。

それは整形外科クリニックという環境で働いていたこともあり、例えば「膝が屈曲拘縮している」という現象は、何らかの原因があって膝が屈曲拘縮していると考えなければ、短絡的に膝を伸ばすアプローチのみをしていても良い変化は得られないからである。

原因論的に、起きている現象に対して「なぜ?」「どうしてその現象が起きているの?」ということを考えながら、原因追究をしながら新人時代は臨床に取り組んでいた。

 

 

 

しかし6年目の時に今の職場も変わり(また整形外科クリニックには変わりないけど)担当する患者さんの層も少し変わってきた。

ここではペインクリニックもあり、慢性疼痛と呼ばれるような心理社会的要因が複雑に絡んだ患者さんを担当する機会も出てきた。

そうなると原因論的な問題点探しでは、患者さんの抱える「痛み」は解消されない。むしろ悪循環に陥ることがあると気付かされた。

 

この負のループに陥らないために必要な考え方が、目的論的な考え方ではないかと思わされた。それはつまり「痛み」は結果ではなく、手段なのではないかということ。

 

これまでは「なぜ」痛いのか?を考えて原因から治すことばかりを重視していたけれど、そうではなく「どのように」痛みと向き合いながら今より少しずつでも楽に生活できるようになるか?といった考え方が必要になってくる。症状との向き合い方、それらつまり自分自身の認識世界との向き合い方を変えていくこと。

 

 

リハビリテーションと目的論

僕のような整形外科クリニックで担当する患者さんは可逆的な症状、つまり「治る」症状を訴えて来院される方も多い。

(ここでいう「治る」というのは、「症状に悩まされずに生活できる」くらいに捉えていただきたい。)

 

しかし臨床現場というのは実際はそういった患者さんばかりではない。大きな病院や介護保険下のリハビリテーション現場では、不可逆的な問題を抱えてしまう患者さんも多くいる。脳卒中の後遺症などは現時点では治すことが難しい症状である。

そう言った場合は、現在の身体の機能でいかに「自分らしさを」を取り戻していくのかが重要なリハビリテーションになる。もちろん機能訓練は大切。治るか、治らないかの二元論ではなく、治らなくても今より身体機能を高めるということは可能であるから。

 

だけど身体機能を高めることに固執しなくても、その状態を受け入れて自分らしさを取り戻していく人も多くいらっしゃる。何が正解のかなんてなくて、その人それぞれの美意識がその人の人生の充実度を決定するのだから、機能訓練をひたすら続けるのも正解だし、そこに固執せずに残存した機能で社会に関わっていくのも正解。

 

リハビリテーションの意味は「全人的復権」である。これはつまり、その人らしく生きることを取り戻すという意味。

 

身体機能にアプローチするのも手段の一つ。

環境面にアプローチするのも手段の一つ。

 

リハ職種に求められるのは、自分の武器や好みの商品を押し付けることではなく、あくまでも「相手」主体でありながら、自分たち専門職が提供できることを提案していくことでもあるのだろう。

 

不可逆的な病気や後遺症には確かに原因がある。その原因を変えることが難しい場合は、原因論的なアプローチには当然限界がある。

目的論的にというか、現在の状況の捉え方を変えていくことがリハビリテーションにおいて重要な考え方でもある。

 

 

原因論はめちゃくちゃ大切

上述したような考えから、僕自身はかなり目的論的な考え方の重要性を近年はずっと感じていた。相手を認める。相手の全てを受け入れ、そこから共に歩むようなスタンスはリハ職種に求められる資質である。

 

しかし、それも度がすぎるとある種の妥協になるのではないか。

やはり現象には原因があることも多い。今、身体機能に問題がある。その問題を抱えたままでも生きやすい社会を・・・というのは非常に大切な観点であるけれど、しっかりと人の身体の構造と機能を学べば、その問題は解決できるかもしれないのである。

 

そんなことを、古賀先生の講座を受けて強く感じた。

 

例えばある身体機能の問題を、その時の自分の知識と技術では改善させることが不可能だと判断すれば、それは自身の中で不可逆的な問題となる。

そうすると身体機能へのアプローチではなく、環境へのアプローチという選択になる。いかにその問題とうまく付き合いながら、その人らしさを取り戻すか?という視点に。

 

その問題というのは、高齢者の場合であれば「変形しているから」とか「高齢だから」とか「基礎疾患があるから」という具合に様々な理由が述べられながら、不可逆的な問題として処理されているケースも多い。

 

そして若い人(子供を含めて)の場合であっても「生まれつき」とか「体質の問題」とか「遺伝」などという具合に様々な理由が述べられながら、個性として処理されるケースも少なくないのではないか。

 

 

僕自身はさすがに「生まれつき」だとか「個性」だなんていうほど極端な考え方はしていないけれど、子供の身体機能が弱いことに関しては発育発達の過程に何か問題があったのだろうという観点から運動療法をメインに行う機会も多かった。

 

しかし古賀先生の講座を受け、胎児期からの影響であったり口腔機能がどれだけ全身の発育発達に影響するのかを知った。体幹機能に口腔機能がこれほど影響するのかと。

これまであまり目を向けれていなかった部分である。

 

「ぁあー、自分、まだまだ何も知らないし全然向き合えてなかったなぁ」

 

その感想は、こう言った経緯から生じたものなのではないかとも思うのです。

古賀先生はデモでも軽やかなタッチでアプローチをし、赤ちゃんの身体機能を即座に改善させていた。

 

 

原因論と目的論は対比されることが多い。

この世の中は様々なものが二元論的に対比され、そして正解を決めたがる。

 

科学は大切だけれど、こうした思考に陥りやすいのは科学を重視する考え方の副産物ではないだろうか。

 

原因論も目的論もどちらも大切。

この言葉を使ってしまう時点で、「どちらか」みたいに選択を迫られてしまうようだけれど、大切なのは相手の状況に合わせて対応できる自分であること。

 

その自分を積み重ねていくこと。

 

まだまだ何も積み上がっていない自分。

そんなことを古賀先生の背中を見て感じさせられました。

 

 

どれだけの努力を継続してきたのだろうか。まだまだ学び続けなければならない。

 

 

 

自分をつくる

前回のブログの続き。

 

前回のブログはかなり読みにくい文章になってしまったけど(いつもか・・)、簡潔にまとめると

 

・〇〇こそが大切!という他人の主張をそのまま自分の考えにしてしまうのは危ない

・大切なことっていくらでも見つかる。自分がそれに必然性を感じれるかどうか

・自分が意識的に取り組み続けたことは、そのまま自分の在り方になる

・何に取り組むかの必然性は、自分の感性が導いてくれる

 

そんなことを書きたかったのです。

今回はこの後半の部分をもう少し突っ込んで整理してみたい。

 

 

 

 

まず「自分にとっての当たり前」をいかに作り上げていくか?ということについて、そして「なぜ感性が大切なのか」について考えを綴ってみます。

 

 

 

自分をつくる

今取り組んでいることが、すぐに自分に影響することもあるだろう。

しかし目先のそういった分かりやすい変化以上に大切なのは、今のこの選択が数年後にどれだけ影響するか?ということではないだろうか。

 

そういった意味で「習慣」をどのようにデザインするか?というのは非常に重要なことである。

 

 

習慣というものは言い換えれば、その人にとっての「当たり前」であり、在り方そのものである。

例えば「早起きをして朝1時間本を読む」ということを習慣化していくとする。

その朝1時間の早起きには、最初は努力を要するだろう。目覚ましの音が鳴っても「まだ眠い」「やっぱりもう少し寝ようかな」「明日からまたやろう」と考えるかもしれない。しかしそこで体に鞭を打って起きる。そして読書をする。

 

そんな習慣を意識的に続けていくと、そのうち「早起きして読書」は当たり前になる。

それをすることで何かが大きく変わるかと言われれば、すぐに目に見えた変化などないだろう。しかし早起きすることも、読書をすることも、その人にとっては「当たり前」になるのである。

 

初日の読書量の差は、1時間分の差であるかもしれないけれど、1年後の差は365時間分の差である。

 

習慣が変わってしまえば、特に努力をしている自覚などなくとも、これだけの差が生じる。そしてその差は時間経過とともに開いていく一方である。

大切なのはこのように「当たり前にやっている」という状態。努力を努力だと思わなくなるまでやり込むことではないだろうか。

 

理学療法士であるならば、新人のうちにこの「当たり前」をどれだけデザインできるか?そこが成長を大きく左右する。

 

 

例えば目の前の患者さんの筋力低下があったとする。筋力低下があるから筋トレ!という選択を自動的にしてしまうセラピストと、「なぜ筋力低下しているのか?」「どうすれば筋力がより回復するのか?」と考えながら向き合っていくセラピストとでは、時間経過とともに差は広がるばかり。

 

考えるのは最初はとても辛い。努力を要する。わからないことだらけだから言葉に詰まったり、手が止まることもあるだろう。

何も考えずに筋トレしている方が患者さんも安心するんじゃないか?

何も考えずに筋トレしている方が患者さんもよくなるんじゃないか?

 

そんなことを僕もよく新人時代は考え悩んでいた。

だけど当たり前に考える習慣をつけるということは、確実に自分の「考える力」を育ててくれる。ストレスがかかるから人は進化する。ストレスを加え続けるからその能力が育つのである。

 

それは今振り返って感じることであり、それと同時にまだまだ自分自身の課題を感じるからこそ、こうして今もブログを綴っている。

 

これからどんな自分をデザインしていくか?

それはつまり、日常的にどのような負荷を自分にかけ続け、その能力を育てるのか?ということ。

 

無意識的に、当たり前に「それ」を行える自分になるためにも、まずは意識的に。

志向性を持って物事に取り組み続けることが大切だと思う。

 

 

知識からより、感性から

 

今の自分には何が必要なのだろうか?と考える時。

 

はたまた、目の前の患者さんにはどのようなアプローチをしていけば良いか?を考える時に、自分の知識の引き出しから行動を選択する場合は多いのではないだろうか。

 

 

僕自身も以前はそう考えていた。

引き出しを増やすことで、自分にできることは増えていく。

だから勉強して、自分の知識や技術を増やしていく。

 

それはその通りなのかもしれないけれど、ではその知識や技術はどのように増やせばいいのか?とさらに深く突っ込んでみる。

 

特に何も理由なく、面白いと言われたセミナーを受講したり、オススメの本や流行の本を購入してみたり。

 

それもまた一つの入り口としてはありだと思う。

しかし本来的には「この勉強が必要だ」と、根拠がなくとも気付ける感性が大切になるのではないかなと思う。

 

 僕自身もオステオパシーを勉強したきっかけはそうであった。

患者さんの身体を触っていて、特に根拠はなかったけど「この硬さは自律神経からきていそうだから、自律神経について勉強していかないとな」と考えたから。

 

つまり、感覚的に「それ」が必要なんじゃないかと感じたから「それ」を勉強し始めたということ。 

 

 

勉強していくから分かるようになるのではない。

分かるから、勉強していくのである。

 

この考え方に否定的な人はおそらく多いと思うけれど、僕自身はそう考えている。

 

「勉強していけばわかるようになる」というのは要素還元主義的な物事の考え方である。

反対に「わかるから、それを勉強していく」というのが全体論的な考え方ではないだろうか。

 

料理を作る時だって、何を入れれば美味しくなるか?なんて先に分解して考えても、結果的にその想像通りにはならないことも多い。

 

まず美味しいものを作る。そこから何を入れたからこんなに美味しくなったのかを検証したり、勉強していくこと。

 

臨床で言えば、まず何が問題かが分かること。分かるからこそ、どんなアプローチをすればいいのかを想像できる。想像できるからこそ、オリジナリティ溢れる治療も思い浮かぶし、また体系化されたものを学ぶ必然性も感じられるかもしれない。

 

分かるからこそ「何を勉強するべきか」も分かるんじゃないかなとも思ったりするわけです。

 

 

大切なのはまず「分かること」

 

触れて分かる。見て分かる。

分かるから、何を勉強していくかが決まる。

 

 

感性が先にあり、そこから知識が積まれていく。

まだまだこの世界は既存の知識で捉えきれないことだらけ。

 

だけど感覚的には何か分かるということがある。そんな風に思うのです。

 

何に取り組むか?

 

昨夜こんなツイートをしたけど、Twitterでは文字数制限もあったので改めてブログの方で考えを綴ってみたい。

 

このツイートに書かれていることというのは至って普通のことであるけど、信念対立が起こりまくってるこの業界では無意識的に「〇〇が大切!◇◇はそんなに大事じゃない」などと言った声もよく聞かれます。

 

例えば「最新の論文を読むのが大切!深い触れ方なんて練習してる暇あるなら論文読め!」とかエビデンスは大事じゃない。大切なのは目の前の患者さんに結果を出すことだけ!」みたいなね。極端すぎる!

 

 

このような言葉の裏側にどのような意図が込められているか分からないので、こういった発言を全て否定する気はありません。

 

よく分からない言葉を受け取り、それを解釈する過程には慎重さが必要です。慎重にその言葉に対する「ツッコミ」を持たなければ、分けの分からない論理を洗脳のように押し付けられます。

いわゆる情報弱者などと揶揄されるような、情報をそのまま受け取り、何が自分の考えで何が他人の考えなのか分からなくなるという状況に陥ることもあるかもしれません。

 

こうならないためにも気をつけたいのは「白黒ハッキリさせる」という対立的な思考に陥らないこと。正解探しを始めると、他人の意見が正解のように感じてしまいます。とくに権威ある人の意見などは。

 

そもそも「論文と触れ方と、どっちが大切なのか?」だなんていう問いは比べること自体がおかしな次元であり、個々によって課題が異なるわけだからその時、その状況で異なることです。

 

意見というのは、その人の歴史や背景が固定観念となり表出されるでしょうから、どんな人が言った言葉なのか?もとても大切なことだと思います。

 

年間に論文10本書いてる人の意見と、全く書いたことのないゴッドハンドと呼ばれる人の意見では全然違うでしょう?

 

 

このような場合に重要なことは「論文の情報量」が蓄積されていくのと同じように「触れ方」にも、そのことと向き合ってきた時間は反映されてくるということです。一見同じように見えても、触れる深さのようなものがあるわけですから。

 

厄介なことに「触れる」という行為の深さというものは可視化することもできなければ、記号化することもできない。つまり科学では扱えない領域であるということ。

 

しかし触れるという行為の違いは千差万別。「あの人にやってもらうとすごく楽になる」という個人差を科学は嫌いますが、それが当たり前にあるのが現実です。

 

 

「 アートかサイエンスか?」という問題も論点がおかしくて、どちらも大切なこと。アートは客観的には分かりにくいけど、主観的にはむしろ分かりやすいものです。

 

人間を相手にしている。自然を相手にしている。不確定要素だらけのこの世界では、科学で全てを捉えきれない。だけど科学で方程式を知れることもある。傾向を知れることもある。

 

しかし実際に起きていることは、具体的な「今ここ」の出来事であり、それを捉えるのは自分の感覚であり主観。アート抜きには臨床はできないけれど、サイエンスを尊重することで救える人が増えるのもまた事実である。

 

 

課題を捉える

 

丁寧に人の話を聞く。

丁寧に触れる。

わからないことは勉強する。

最新の論文に目を通す。

 

どれも終わりのない課題である。

 

「いやいや、日本語わかるから人の話くらい聞けるし」と感じる人もいるかもしれないけれど、言葉を意味として捉えてしまうと相手の話は聞けない。というのが最近僕が強く感じることでもある。

 

先週のワークショップを終え、この1週間はかなり意識的に「相手の話をしっかり聞く」ということをテーマに日常を過ごしていた。

この取り組みをしていて思ったのは、相手の話をしっかり聞くというのには相当な集中された状態が必要ということ。客観的に感じ、そして間主観的に感じる。相手の心境、言葉の選び方、声のトーン。そんな細かい要素を分解して意識しながら聞いているわけではないけれど、全体として相手の声を味わう中で様々なことを感じた。

 

「あぁ、自分はまだまだ人の話を聞けていないな」ということを改めて知れたように思う。この1週間だけでも変わった部分はかなりある。

 

そう考えると「話を聞く」という行為にも終わりはない。

 

これはアートな部分だと思う。だけど臨床において絶対的に必要なことである。

 

 

臨床は患者さんのHOPEに基づいて組み立てられるもの。

そこがスタートになるのだから、そのHOPEをしっかり聞けるかどうか?患者さんの想いを、歴史を、今の気持ちをしっかり聞けるかどうか。それが評価・治療の構造にもろに影響してくることは想像できると思います。

 

 

 

自分自身に対する課題は絶えない。

海外論文を読む習慣もないし(本来は医療職として必要なこと)、臨床での疑問点を全て調べているか?と言われれば、そこまでやれてはいない。

 

しかし自分の中で「あぁ、相手の話をしっかり聞けるようにならないとな」という問題意識を強く持った経験があるから、そこをテーマに過ごしていた。

 

時間は有限であり、どこに重きをおくのかは各自の持つ問題意識によって変わってくることだろう。

その問題意識に基づいて、何かに意識的に取り組み続けること。そうすることで、その「意識的な」取り組みは、次第に当たり前となり、その人の在り方そのものに変化していくのではないだろうか。

 

問題意識というテーマをどのように設定していくべきか。それはそのことに必然性を感じる感性に他ならない。

 

であるならば、感性を磨くことが知識を闇雲に増やすことよりも先に取り組むべきではないか。感覚的に「あの勉強が必要だな」と分かるから、その勉強をする必然性に駆られるのではないのか。

 

 

人間という自然界の一部である以上、僕自身はまず感性を尊重していきたいと思う。

 

その感性が、知識を必要としたらそのことに取り組み続ける。頭での判断よりも、必然性に駆られて物事に取り組みたい。

 

 

 

言葉が届く時

言葉を届ける

 

言葉がどれだけ相手に作用するかは、本来言葉の持つ意味とは関係がない。

 

 

先日のワークショップでも、“相手に向かって”どれだけ言葉を届けることができるか?が全てであるということを体感した。

 

それと同時に、言葉を受け取る側も“受け取る状態でなければ、それを自分が受け取ることはできない。

 

 

では、その受け取る状態とは何なのか?

 

 

それは目的意識の明確さであり、欲求というのが1つではないか。

 

 

 

ワークショップの中で、後ろから羽交い締めにあった状況から目の前の人に握手をしに行くというワークを行った。

 

 

この時に大切なのは「前に進むこと」ではなく、「握手をすること」、つまり明確な目的意識である。

 

そしてそのような状況の相手に対して、目の前で握手を待つ人間は声を届ける。

 

 

 

「コッチだ!!来い!来い!!」

 

 

 

 

その声が届いた瞬間に、恐ろしいほどのパワーが出る。欲求と、応援する声とが重なった瞬間であった。

 

 

 

 

声を届ける人間も、生半可な応援では相手に全く作用しない。

 

誰に向かって言っているのか?

 

そこには「相手」が存在し、そして「自分の想い」が言葉に乗る。それを人は言霊と言うのかもしれない。知らんけど・・

 

 

 

 

 

 応援とは

 

よく「応援してます!」という言葉が社交辞令的に交わされる。この言葉自体には何も具体的な応援は含まれていないだろう。

 

 

「応援」とは極めて具体的である。

それは相手の琴線に触れるもの。具体的に相手の何かを動かすもの。相手に作用するものである。

 

 

「応援しています」というのは基本的には社交辞令でしかない。応援という抽象的な言葉の中身は、極めて具体であるはず。

 

僕の高校時代のバスケ部の顧問は、ルーズボールに対して「取れー!!」という指示を出していた。当時は指導者としてあまりにも単純すぎないかと疑問に思ったりもしたが、今思えばこの指示こそが極めて具体的な応援なのかもしれない。

 

目の前にボールが転がっている。それを取りに行こうとしている自分がいる。その行為にさらに拍車をかけるような、背中を押してくれる言葉。それが応援である。

 

 

 

人を応援することはできない。それを受け取るのは相手であるのだから、自分勝手な応援は相手に作用しない。相手の欲求に重なった、具体的な関係性なのである。

 

 

だからこそ、やはり大切なのは相手と向き合うこと。その前提がなければ、実際の対人関係では何も始まらない。

相手と向き合う中で、その関係の中で結果的に相手に何かが届けば、言葉は応援となり相手に届き、相手の持つパワーはさらに発揮されるのかもしれない

 

 

 

 

 

 言葉から始まる出逢いもある

 

 

“相手に向かって”どれだけ言葉を届けることができるか?が全てである

冒頭でもそう言ったけど、最近は自分の経験としてもそれを感じている。

 

 

9月に行った対談イベントと先日のワークショップ。

僕は主催者という立場で裏方であったけど、なんと「佐々木さんに会いたくて来ました」と言ってくれた方々がいた。 

 

 

 

このブログの読者も少ないし、Twitterも実質のフォロワー数は少ないと思う。

そんな中で、1人でもこうして自分の言葉が誰かに作用して、実際の具体的な行動に結びついたのなら、とても嬉しいこと。

 

 

僕自身の発信している言葉自体は自戒の言葉であり、不特定多数の人が見るSNSにおいて、明確な「相手」というのは基本的には自分である。

 

 

そんな自分への言葉を受け取ってくれた方々は、潜在的な欲求が自分と似ているのかもしれない。何かしらの感性が自分と似ているのかもしれない。

そんなことを実際にお会いし、お話させていただき強く感じることがあった。物腰の柔らかく、とても芯のしっかりした素敵な方々でした。ありがたい出逢い。

 

 

 

言葉を丁寧に選ぶこと。

そうすることで、同じような感性を持つ人と繋がることもあるのだと感じた。

SNSが当たり前の時代だからこそ言葉大切に。そしてその言葉を通して、何か潜在的に同じような欲求を持つ人との繋がりを大切にしたい。

 

 

 

 

具体的に相手に届く言葉を。

そのためには相手と、そして自分と向き合える自分を磨いていく必要性を感じる。

 

 

ワークショップでは、まだまだ相手を伺おうとしている自分の癖がもろに出た。

自己表現することの不慣れさを感じた。

 次々と自分の癖が表れ、現実を見せられ、そして多くのヒントを得られた。

 

 

あとはまた試行錯誤して、コツコツやるだけ。

 

まだまだ伸びしろだらけやー