ささやんブログ

"いま"を醸していく

引き寄せの法則はあるのか?

 

こんにちは。ささやんです。

なんとかブログ更新続いています!

 

ということで9月に入ったばかりですが、今日も4月に頂いた質問に対する回答を改めて考えてみることにします!4月に質問をくれた皆様ありがとう!!

 

 

 

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今日は

「引き寄せについてどうお考えでしょうか?見解をお聞きしたいです。」

 

 

ということで引き寄せについて改めて考えてみたいと思います。

PTらしくない質問の方が個人的には嬉しいです◎そして何より最初の一文がとても嬉しい!匿名でもこのような温かい言葉をいただけるのは素直に嬉しいですし、こちらも温かい気持ちになりますね!

最近はツイッターでもブログでも匿名で誹謗中傷を繰り出すアカウントも多く、質問箱を設置した時も「誹謗中傷が来たらどうしよう・・」とガクブルでしたが、この質問を読んで温かい人にフォローしてもらえているのだと知り、嬉しい気持ちになったのを思い出しました◎質問してくれた方、改めてありがとうございます!!

 

 

  

 

 

引き寄せとは?

 

引き寄せの法則に関する書籍は僕も2冊ほど読んだことがあります。 

 

 

 

有名なのはザ・シークレットだと思われますが、海外からの翻訳された本ってめちゃくちゃ読みにくくないですか?僕はこの2冊をサラッと読んだ程度の人間なので引き寄せについてあまり深くは知りません。せっかくご質問いただいたのに申し訳ない!

 

 

でもせっかく頂いた質問です。しかも「佐々木はどう考えているか?」という大変ありがたいご質問なので、私見を自由に書き綴ってみたいと思います。

 

 

 

 

よく「類は友を呼ぶ」とか「思考は現実化する」といった言葉がありますが、引き寄せというのはそれらに通ずるものがあるのではないかという印象があります。

 

「自分が本当望んでいる未来は、引き寄せられてきますよ」的な感じですよね?違うのか?

 

 

 

ここで大切なのはこの「本当に」という部分。

この「本当に」を突っ込んで考えていかなければ、ただの胡散臭いスピリチュアルな方法論を「信じる/信じない」というかなりズレた論点になってきてしまいます。

 

 

この質問者様がさらに素敵だなと思うのは「引き寄せを信じますか?」ではなく「引き寄せをどうお考えでしょうか?」という質問をしてくれているというところ。

「信じるか?信じないか?」といった対立的な思考ではない考え方。方法論の是非を問うようなものではなく、物事を深く捉えるための考え方であり大切なことだと感じます。

 

 

ということで次に「本当とは何か?」を考えていきましょー!(←すぐ話が変わるあるある)

 

 

 

 

本当とは?

 

「本当に望んでいる未来」というものがあったとする。自分がそうなっていることを望む未来像。

 

 

もしそういったものがあるとすれば、そのために行動をしているのが人間ではないでしょうか。

望んでいれば行動しているし、望まなければ行動しない。

 

当たり前のようなことを言っているけれど、この当たり前を深く突っ込めずに悩んでいる人も多い。

 

 

 

それは頭の中で生きているから。望んでいないのに望んでいると思っている。これは「本当に」ではないですよね。

 

 

 

人間の価値観というのは他者の影響を大きく受けます。考えるのが面倒だから。

僕も考えることは好きだけど、面倒。

 

だから誰かの価値観を正解だと思いたい。

誰かの望んだ未来が、自分も望む未来だと思いたい。

 

そんな風に面倒なことに取り組まずに、他者の価値観を無意識のうちに自分の価値観にすり替える。そうこうしているうちに完成してしまうのが「自分が望んでいると思っている未来」ではないだろうか。その代表的なものが宗教である。

 

 

 そして何もこれは「未来像」に限って言えたことではない。

 

「自分は〇〇な人間です」

「自分はこんな悩みを持っています」

「僕は〇〇が得意です」

 

 

そういったもの全てにツッコミを入れていく。

「本当に?」

 

 

宗教や信仰心といったものを否定する気は全くない。ただ大切なのは、他者の言葉を鵜呑みにしないこと。 

 自分の行動を振り返れば、そこに自分の価値観が反映されている。

自分の歩んできた足跡は、消すことも隠すこともできない。それらとしっかり向き合う。自分の姿をしっかり見ること。

 

 

 「本当に」の部分は、自分自身の在り方に現れているはずです。

 

 

 

 

 

僕と一緒に仲良く法人を運営しているクマ臓という友人がいる。

彼は自称「熟女好き」であり、自分自身を「味噌も女性も熟した方が好き」というユーモアがあるのかただ気持ち悪いだけなのかよく分からないキャッチコピーで絶賛売り出し中である。 

 

 

 

 そんな彼が年下の女の子と結婚をした。

 

もし引き寄せがあるのなら、「熟女が大好きだ!」と思っているのなら、きっと彼の元には熟女が引き寄せられてくるはずである。

それなのに歳下の女の子と結婚をした。

 

 

だから「引き寄せなどない!」というのは思考停止状態。

 

 

引き寄せの法則は「お願いする」とか「強く思う」というような、そんな生半可なものには適応されなくて、やはり「本当に」という部分が大切だと言えるのではないか。

「本当に」は「在り方」に現れるのだから。

 

 

そういった意味ではクマ臓くんよりもやはりペタジーニ。彼こそが「本当に」熟女好きなのだろう。

 

 

 

 

 

 

在り方

 

人間の行動は潜在意識がその多くを決定しています。

 

例えば今よく一緒に過ごしている仲間とは、なぜ一緒にいるんですか?と聞かれても、きっと明確な答えは出ないのではないでしょうか?

 

 

目的がある人間関係ほどつまらないものはないと僕は思う。

 

「なんとなく」「理由なんてわからない」というのが普通の答えではないでしょうか?

これはつまり、顕在意識にのぼらない何かが人間関係を決定しているということであり、その何かというのが「潜在意識」とも言われたりするものなのではないでしょうか。

 

 

 

そして先ほどから出しているワードである「在り方」

その人の在り方とは潜在意識が作り出しているものであり、それこそが「本当の」自分とも言えるのではないかと思います。

 

「潜在意識を変えれば成功する」系の自己啓発本がよくあるけれど、そういった類の本を読むことで何かが変わればそれは素敵なこと。

 

ただ方法論的にそれらを捉えてしまえば上手くものも上手くいかない。何でもそうだけど、大切なのは方法ではなく取り組み方であるから。

 

 

ここで矛盾したようなことを言うけれど、潜在意識を変えるには顕在意識を使っていくことも大切です。つまり意識的に何かを変える努力をするということ。

 

 

「自分」というのは探すものではなく、創り上げていくものです。

個々の性格や才能などの持って生まれた素質もあるけれど、そのようなものは自分や他者と向き合っていれば分かるもの。そこで「じゃあどうするか?」を考えて行動していくことが自分の人生のはずです。

 

 

そういった意味で、引き寄せというのも、本当に何かを願うという志向性(顕在意識)から、自分自身の在り方(潜在意識)を変容させていくことで行動が変わり、行動が変われば当然それに見合って周囲の人間や環境が変わったりするし、その結果望んだ未来に近づけるということではないだろうか。

 

もちろんそこには目に見えない「波動」とか「周波数」といったものも関係しているのかもしれませんが、詳しいことは知らないので書けません。

 

自分が変われば、未来は変わる。

 

自分が変わるためには「何を強く願うか」というのは大切であるけど、そこに一つ加えるなら「それは本当に自分が願っているのか?」というツッコミを入れることが大切だと思います。

 

 

 

 

自然はコントロールできない

 

 何だか書き始めるとまとまりがなくなてくるのは毎度のことなのですが・・・

 

大切なのはやっぱり自分の在り方であり、その結果どうなるか?というものだと思います。

 

 

 

そういった意味で言えば、引き寄せの法則というのはあると言えばあるし、ないと言えばない。

そういった側面はあると思いますが、そういった法則はないと思います。

 

 

不確定要素だらけのこの世界で生きている以上、自分の思い通りにいくなんてあり得ないわけで、本当に願っても引き寄せられない現実なんて山ほどあるはず。引き寄せの法則を使ってアイドルと結婚できた人なんていないでしょう。

 

 

だけどその中で自分の在り方が変われば、現実も自分が望んだものに近づいていくものなのだろうと思います。

 

 

 

大切なのは「自分」

 

引き寄せの法則」がどうこうではなく、何らかの自分が変わっていった結果「引き寄せの法則」と呼ばれる何かを経験した人がいるだけなのではないかなぁと思っています。

 

 

 

 

 

長くなりすぎてしまったけど、興味深いテーマをありがとうございました(^^)

 

 

信念とは?

 

さて、ブログの更新を頑張ろうと3年ぶりくらいに思いたったのですが、書くテーマというのは与えてもらえると楽しいし、自分としても書く甲斐があるんじゃないかと・・

 

ということで、今回から質問を募集することにしました。

 

peing.net

 

頂いた質問から、なるべくブログ記事として考えながら回答できればと思っています。

 

 

 

と言っても、たった今このブログで募集開始したばかりなので質問もまだありません!笑。

なので今回は、4月に頂いた質問に対して改めて再考してみようという企画!(一人で盛り上がってます)

 

 

第一弾! 

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「大切にしている信念ってなんですか?仕事、家庭、人生でそれぞれ大切にしていることを教えてほしいです。」

 

 

確かこの時はTwitterで140字以内にまとめようとして簡単な回答をしてしまったので、改めて考えさせていただきたいと思います。

 

 

 

 

信念とは

 

まずこの質問に対する回答を考えるのに、言葉の定義をはっきりしておこうと再確認。

 

信念とは:

  1. 1 正しいと信じる自分の考え。「信念を貫き通す」「固い信念」

  1. 2 宗教を信じる気持ち。信仰心。

 

調べるとこのように出てしました。

 

 

 

 

僕はここでは1の「正しいと信じる自分の考え」という定義で考えていきたい。

 

と思ったのですが、この定義の言葉自体に少し違和感があったので、改めて定義を見直します。

 

 

 

信念≒美意識: 人が美しいと感じる心の働き。

 

うん。こっちの方がしっくり来る。

 

 

 

正しいか、正しくないかという問いよりも

美しいか、美しくないかという問いの方が、自分自身が身体感覚として大切にしていることが見えてくる。

 

正しさという指標には、何か外部に答えがあるというニュアンスを持つような印象があります。正しいの反対は誤り。そんな対立的な考えであるからこそ、正義感から戦争が起こったり悲しい争いが生まれたりするわけですよね。

 

 

 

それに対して美しさという指標は、感性によるもの。すなわち外部に答えなどなく、ただ自分という人間がどう感じるか?だけであると。

 

だから自分の信念というのは、自分がどういった生き方を美しいと感じているか?と言い換えられるのではないかと考え、このように定義して考えたいと思います。

 

 

 

仕事の信念

 

仕事は理学療法士として働いているので、ここでは主に臨床についての自分の信念(美学)を書いてみたいと思います。

 

僕が臨床で大切にしていること。それは「太陽のようなアプローチ」。これは新人時代からずっと意識し続けていたことで、現在も変わりません。

 

太陽ってなに?と思われた方もいると思いますが、この太陽というのは、童話「北風と太陽」から引用しています。

 

 

北風と太陽は皆さんご存知かと思います。

とある旅人の洋服を脱がせるという対決を、北風と太陽がするわけです。

北風は強引に風を吹きかけて剥ぎ取ろうとしますが、旅人は北風の寒さで余計に服を着込んでしまいます。

 

それに対して太陽は、陽射しを照りつけることで、旅人が自ら服を脱ぐという反応を引き出します。

洋服を脱ぎたくなる環境を作り出すというアプローチです。

 

 

つまり北風的アプローチというのは、強引で傲慢なアプローチ。

 

太陽的アプローチというのは、相手の反応を引き出す環境を整えるアプローチ。

 

そんなイメージです。

 

 

 

学生時代、臨床実習でお世話になったクリニックの先生方が、「筋は硬くなるべくして硬くなっている」ということを教えてくれました。その教えに感銘を受け、人のすべての反応は適応の結果であると考えるようになりました。

 

 

精神科医の神田橋先生の言葉でも「病という概念言語で切り出された事象は、そこに生体恒常生の動きも含んでいる」とありました。

 

野口整体野口晴哉先生も「問題は異常ではない。異常を正常と保ち続ける働きが問題」とありました。

 

 

これらが指し示すのは「病」とか「異常」と言われる状態は、身体の正常な働きによって起こるということ。つまり起こるべくして起こっているということではないでしょうか?

 

 

 

そのように起こるべくして起きているものを対処療法的にアプローチをしても改善は見込めません。

 

その「起こるべくして・・」の部分、つまり症状を出させている環境を整える必要があるわけです。

 

環境が整えば、カラダは勝手に治っていく。人はそのようにできている。

 

 

その環境というのは、身体環境かもしれないし、生活環境かもしれない、社会的立場かもしれない。そこをしっかりと知るにはちゃんと向き合うということが必須。この「ちゃんと」ができていないなぁと今でも日々思い知らされてます。。

 

 

そんなことを考えながら、太陽的なアプローチをできるように、しっかりと向き合いながら臨床をしていたいと日々思っています。そしてこれは、仕事に限らずすべての場面で大切にしている信念かもしれません。

 

 

 

 

 

家庭の信念

 

家庭の信念ってなんだろ?難しいですね。。

 

 

自分が家族に対してなるべく心がけているのは、「何かをしてくれるのを当たり前と思わない」こと。

 

例えば家事にしても育児にしても「やってくれて当たり前」と思ってしまうことが既に自己中心的な考え方である。

 

いくら家族であっても自分とは違う他者である以上、僕が勝手に何かを期待しているというのは傲慢なことだと思います。

 

そんな中で「家事をしてもらうことは当たり前じゃない」と考えると、色々としてもらった時に感謝できる。まぁ毎回そこまでの余裕がないのも事実ですが、ふとありがたいことなのだと思うことがあります。

 

 

どうしても家族というと距離感も近いから、価値観を無意識のうちに押し付けあってしまうこともあるけど、あくまでも家族は他人であり自分の価値観とは異なる価値観を持っている。そんな自他の違いを知り、相手の価値観を受け止められる人間になりたいですね。これも家族に限らずですが。

 

 

 

人生の信念

 

まだ31歳という青二才であり、何も成し遂げていない一般ピーポーな僕が人生の信念だなんてお題を考えるのも少々気が引けますが・・笑

 

そのたった31年の人生を振り返った時によーく観察していくと、過ごしてきた時間の中にこそ自分の美学というものは存在するのだと思います。

 

 

これからの人生でどんなことを大切にしていきたいか?を頭で考えて言うのもいいのかもしれないし、今大切にしていることを言うのでも良いのかもしれませんが、そうすると綺麗事を言ってしまいそうなので・・

そうではなく、過去を振り返ることで洗い出される事実を抽出してしてみたい。

 

 

 

 

 

 

・・・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

・・・・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

・・・・・・・・・

 

 

 

 

 

チンッ💡

 

 

 

今、31年間の自分の人生を振り返りました。

 

 

 

 

 

 

おそらく僕はこれまでの人生で、バランスを取る役割を無意識的にやってきたのではないかと思う。

 

 

 

リーダーがいない場ではリーダーシップを取る。

 

個性が強い人たちの中に混ざれば、おとなしく一歩引く。

 

 

 

良い言い方をすれば、全体の調和を取ろうとすること。その時、その場所で自分に何が求められているのか?確固たる自分がいるのではなく、相手に合わせた自分でありたい。

 

そんな美学がこれまでにもあったのだろうと気付いた。

 

 

 

 

バスケをしていた時も、ポジションは3番か4番。中でも外でも、その時の状況に合わせてというプレースタイルではあった。

 

 

個人的にはスポーツ選手でもそんなユーティリティープレーヤーが好き。

 

 

 

理学療法士としても、何かのスペシャリストである前に、ジェネラリストでありたい。

 

一つの治療技術に長けるよりも、鑑別診断力をしっかりと身につけて相手に合わせた介入ができること。

 

これは言葉で言うのは簡単ですが、実際は相当難しい。

しかし、そこに美学を感じている。

 

 

 

 

 

少し話が変わってしまったけれど、大前提として僕が思うのは

「人間は社会的な生き物である」ということ。

 

 

 

人と人との関係の中で生きている。

 

 

 

 

 

自分自身の存在意義というのは、関係の中で決定されるのだから、やはり今後も僕は「相手にとっての自分」「社会にとっての自分」という存在意義を考えながら、調和をもたらせるような役割を担える人間になる。そんな人生を送っていきたいと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

これにて第1回の質問箱回答祭りは終了!

 

 考えるきっかけをもらえるのはありがたいことです。ここまで深く自分の信念について考えたこともなかったので(そんな深くなくてごめんなさい)

 

 

ということで質問募集しているので、ぜひ何か質問を送ってください!

 

 

peing.net

 

 

高速道路のおじさんから挨拶を学ぶ

先日、高速道路に乗る機会があった。

久々にETCがない状態で乗ったので、インターでおじさんとお金のやり取りをする。

 

 

 

 

おじさん「おはようございまぁす!」

「おはようございます!」

 

 

 

 

 

この感じ、文字にするとなんとも寂しい当たり前感満載な記号の羅列にしかならないのですが・・

 

久々に挨拶というものをされたように感じた。それと同時に、自分の日々の挨拶は挨拶になっていないと考えさせられた。

 

 

 

 

その言葉は誰に向かってるのか?

 

一瞬の出来事だったからその時のことは後から分析するしかないのだけど、無意識に相手に向けて挨拶を返している自分がいた。

 

 

挨拶はされたら返すのが基本だと頭の中で思っている人もいるかもしれない。確かに礼儀的にはそうだよね。

 

でも例えばコンビニとか、ファミレスとかの接客場面で機械的に繰り出される「おはようございます」に、無意識に挨拶をし返すことってあります?

あると会う人は素晴らしいですけど、残念ながら僕は大体返しません。返さないというか返せないことが多い。挨拶をされたことにも気付かないこともある。誰に言っているのかが分からないし、相手も自分に向かって言っていないから、僕が挨拶を返さないことでどうこうという様子も見受けられない。

 

 

「挨拶はされたら返すもの」

これは知識としてそう思っているだけであり、頭での判断です。

 

 

しかし僕が先日した体験は判断ではない。咄嗟にというか、気付いたら挨拶を返している自分がいた。確実に判断ではなく反応であった。

 

 

 

 

これが対人関係の中で大切なものであり、ごく当たり前の常識的なものなのかもしれない。

 

 

 

 

誰に向かって挨拶をしているのか?

 

その挨拶は相手にちゃんと言っているか?

 

相手にしっかり届いているか?

 

 

 

 

 

相手との関係で何かが届けば、相手から反応が返ってくる。

 

挨拶などの言葉を介したものだと分かりやすいけれど、これは頭の判断ではなく身体の反応としてのリアクションであるから、言葉を介さなくても言えるのだろう。

 

 

 

相手に作用しなければ、何も返ってこない。

これは挨拶もそうだけど、臨床なんかまさにである。

 

 

 

自分の意識はちゃんと相手に向かっているか?

 

そう思ってるだけで、本当に相手に作用しているのか?

 

 

 

 

日々の挨拶から見直すきっかけをもらえた。

声の大きさとか、そういうことじゃない。

 

おじさん、ありがとう!!(声もデカかったけど、それだけじゃない挨拶だった!)

 

 

 

 

 

そして、そんな対人関係や「作用するとは?」ということを深めるためのワークショップを開催します!

 

身に気づくワークショップ

 

 

すでに半数以上席が埋まっていますので、ご興味のある方はお早めにお申込みください。

 

 

地図と土地は別物

先日、エモリハさんという療法士向けのセミナー団体で講師をさせていただいた。

エモリハ代表の加藤さんとは2015年のリアル臨床がきっかけで知り合うことになった。

この時は僕も加藤さんも初めて演題を出して、一緒に仲良く祝3位入賞。その時を共有させていただいたことで何かシンパシーを感じたのか、お互いが相手に対する興味を持ち、共通の知人を通じたりSNSを通して交流し、今回のセミナーという一つの企画に繋がった。ありがたい!

 

 

知識というフィルター

セミナー資料を作りながら、改めて日々の臨床を振り返るきっかけを頂いた。

最近はブログもあまり更新しておらず、以前よりも日々の考えを整理する機会もなくなっていたので良い機会となった。

 

 

 

さて、理学療法士として日々人の身体に触れていると本当に多くのことを感じとれるわけで、そこからまた考えさせられることが尽きなかったと振り返って思うのです。

 

僕がオステオパシーを学ぶようになったのも、患者さんに触れた時の「感じ」がきっかけ。1年目の頃はバイオメカニクスが大好きで、運動連鎖や姿勢制御などの勉強を中心に臨床をしていた。

 だけどある時、とある患者さんに触れていて「これなんかおかしいな」という印象を持った。何か質感が違う。なんとなく自律神経由来っぽい??ナンダコレハ・・・

勉強して引き出しに入っていた既存の知識では解釈できない。そこで必要だと思い、新たにオステオパシーを学ぶ入り口に立ったのであった。

 

 

 

 

「触れて感じる」というのは、何を感じているのかと言うと、それはクオリアと呼ばれるものを指します。クオリアと言語との間には必ずギャップがあるので、自分の感じたソレを既存の言葉(知識)に当てはめてはいけないのです。

 

日々人を触れる中で大切にしていきたいのはここ。触れた印象を既存の知識に当てはめようとしないことです。

 

適切な比喩表現ではないかもしれないけど、「地図と土地は別物」という言葉があります。

 

 

 

「解剖学」という単なる構造の位置関係を確認するために触れているだけでは、構造が正確な位置に「触れられるか触れられないか」というどちらかの判断にしかならない。

 

 

これは単純に、その土地へ足を運び「地図通りに建物があり、道が通っているか」を確認しているだけに過ぎません。地図通りであれば正解。何かが違っていたら不正解という非常にわかりやすい構図。

 このような技術を持っていても、そこから何か新たに気付くことはできない。

 

 

そこで我々セラピストは、この「解剖学的」という視点からさらに「硬さ・組織の緊張」などを確認して判断の材料としています。

 

 

これは言うなれば、その土地の建物の老朽化が進んでいないか?道路が陥没したり亀裂が走っていないか?といったものを確認しているわけです。

 

 

 

さて、地図通りにその土地を歩き、その土地の建物や道路の状態を確認することは「その土地を知る」ことになるのでしょうか?

 

 

「いや、違う!」と僕は思います。

これらはものすごく部分的な情報にはなりますが、その土地を知ることにはならないのです。

だって道路修繕の予算を立てるのには必要な情報でしょうが、その土地が本当に何を求めているのか?道路の修繕が本当に求められることなのか?という問いには何の役にも立たないですよね。

 

 

これらは「道路の修繕」という事業が成り立っていることからこそ見えるひとつの視点であり、この事業ありきで捉えた非常に自分勝手なその土地の問題点になります。

 

 

 

 

そして人の体に触れるというのも、同じようなことが言えます。

 

「解剖学」や「生理学」

これら学問として成り立つものをベースに教育がなされているため、「位置関係」や「組織の緊張状態」を捉えようという思考過程に無意識的に陥るのかもしれません。

 

 

しかしそれは「解剖学的に見た」とか「筋緊張は」というような一つの学問ベースの立場から見た視点であり、それによって「その人」を知ることにはならないわけです。もちろんこのこと自体を否定するつとりはありませんが。

 

 

 

 ではどうしたらいいか?

 

 

それは触れて感じたものを、無理に解釈しないようにすることが大切だと思います。

「 解釈しよう」という態度で触れば、それは知識として自分が知りうる部分的な情報にのみフォーカスすることになります。

 

すると相手を知るために行う評価そのものが、部分的な手法に規定されてくる。その評価手法によって知れる「相手」は、「その評価手法によって知れる相手」なのです。これは相手そのものではありません。

言葉遊びのようになっていますがそうでしょう?

 

もちろんどうあがいても自分のフィルターを介さずに認識することはできないので、「その人そのもの」を知ることなどできないのですが、大切なのは相手と関わる上での自身の態度だと思うのです。

 

 

 

 

論理的より味わいを

 

論理的思考というのは一見、問題点を把握し解決するために重要な方法のように思えますが、方法というものは何かしらの前提条件が成立してこそ発揮するものです。

 

そう考えると、不確定要素の多いものを対象とした場合は前提条件も成立しないケースがほとんどであり、あまり役に立ちません。

 

筋肉の状態を知りたければ筋肉の触診をする意義はありそうですが、人を知りたい場合に筋肉の触診をしたところで、それは人の構成要素のほんの一部しか知りえないわけです。

 

 「そんなことわかってるよボケ!!」という罵声が聞こえてきそうですが、このようにな触診手法にこだわっていては、いつまで経っても「自分の知りうる知識」そして「科学的に解明されている理論」という枠からはみ出た情報をキャッチすることはできません。

 

 

地図を見てその土地の道路や建物の情報は分かっても、実際に土地に行かないと分からないものにこそ「その土地を知る」上で大切なものが詰まっています。

それは、その土地の風の香りとか商店街の活気とか人の雰囲気など、決して記号化できるようなものではないかもしれません。

 

 

 

 

引き出しを増やすことも大切かもしれませんが、引き出しを増やすには、その引き出しを増やす必然性を感じられることがまず先ではないでしょうか?

 

 

 その必然性を感じられる感性が備わっていないのに、引き出しだけ増やしても実際の現場では使えません。

 

 

 

 決して知識はいらないと言っているわけではないのだけど、何のための知識なのか?そこを汲み取れるだけの感性が大切だと思うのです。

 

 

 

 

いろいろ書きましたが、こうしてブログを書くことでも自分の考えは整理されるのでいいものです。また書いていこう。

 

 

 

 

エモリハの皆様、受講生の皆様

改めてありがとうございました!

 

赤ちゃんをあやすように臨床に向き合う

長男が生まれて今日で4か月。

 

あまり手のかからない子というか、夜もガッツリ寝てくれているし助かっている。とか言っても僕が仕事中に妻は大変な思いをしているかもしれないけど。。

 

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それでも当然、泣いて泣いてどうしようもなくなる時がある。

それは「たそがれ泣き」などと言われるような時期的なものもあるのだけど、親である僕らの態度が反映されている場面も多いと感じる。

 

 

 

例えば、僕が「今日は2時間子供と遊んだら、そのあとは仕事をしよう」なんて考えているものならば、2時間経って「さて、そろそろ・・・」という頃にギャン泣きしたりする。

 

そこで子供をあやしても、全然泣き止まない。

僕は自分の中で勝手に立てた計画が崩れていくのに焦り、苛立つ。

 

するともう悪循環。あやしているつもりでも、全く泣き止まない。

 

赤ちゃんは感覚で生きている。

その感覚というのは非常に繊細で、大人である僕ら周りの人間の心の状態をそのまま感じ取るということを、これでもかと思い知らされる。

 

 

 

 

心の余裕

 

自分のことしか頭にない状態は、要するに「いっぱいいっぱい」であり、余裕などない。この余裕というのは「相手と向き合える余裕」であり、タスクとか時間的余裕とかそう言った「自分」の中だけの話ではない。

 

 

このような余裕がない状態、いわゆる自己中心的な時というのは目の前の相手と向き合えない。自分の頭の中のストーリーだけでいっぱいいっぱいで余裕がない。

そしてそれは確実に相手に伝わる。子どもを通じて「これでもか!」というほどに教えてられる。

 

 

 

 

自分のことは一旦置いておく。

そんな態度を選択するとスッと心の余裕が生まれる。ある種の開き直りのようなものだ。

 

相手のために自分の時間を使う。相手ありき。相手に自分を捧げる。

 

そんな態度をとると、赤ちゃんは泣きやむことが多い。当たり前である。

そして自分がそのような態度で在れば、赤ちゃんが「何をして欲しいのか?」を察することができる。「ここを触って欲しいのだな」とか「このポジションで寝たいのか」ということが伝わって来るのである。

 

 

この「伝わって来る」というのが非常に重要であり、それは頭で考えて相手を理解しようとするとか、そんなんじゃなくて「よく観ていればわかるもの」なのだろう。

 

 

 

子どもにそんなことに気付かされ、そしてまたこれは臨床でも全く同じことが言えるのではないか?ということに気づいた。

 

 

 

泣いてる赤ちゃんをあやせるような人間に

 

泣いている赤ちゃんをあやすには

・赤ちゃんとの信頼関係

・赤ちゃんが何を求めているのかを感じ取れる

・赤ちゃんの要求に応えられる

 

簡単に書いたのだけど、現時点ではこう言ったことが大切な要素なのではないかと考えた。

 

そして、信頼関係を築くには大前提として「相手にはこちらの状態は全て伝わる」ということを肝に銘じる必要がある。これは前述したように、赤ちゃんという感覚的に非常に繊細な存在と向き合うことで知ったことのだけど、大人であれ同じ人間であることに変わりはない。潜在的なところではこちらの在り方というのは相手にも伝わるのである。

 

であるならば、こちらの自己中心的な「思惑」とか「計画」というのは相手に違和感を与えるだけであり、信頼関係には結びつかない。利害関係なく付き合うということ。それこそ言葉にすると安く聞こえてしまうけど「無償の愛」というものがそう言ったものなのではないかと考える。相手のために在る自分。そんな自分で在るということ。

 

 

次に赤ちゃんが何を求めているかを感じ取る。そのためには知識といったものは全く必要ない!ということは断固として言いたい。赤ちゃんが泣いている時に「オムツかな?」とか「おっぱいかな?」と考えたり、授乳間隔などの時間を見ながら判断する人も多いと思う。だけどそれでは赤ちゃんの本当の要求は感じ取れない。オムツを替えた直後におしっこすることだってある。その時の赤ちゃんの要求というのは、ちゃんと観て、声を聞けば「あぁ、もうオシッコしちゃったか」とすぐに分かるのだけど、知識で判断しているうちは「オムツは今替えたばかりなのに何でだろう?」となる。知識から答えを求めているうちは、その人の持つ知識の数で選択肢が規定される。そのため本当の要求にたどり着けるかどうかは知識量に委ねられることになってしまう。

赤ちゃんをあやすのに知識量に委ねられるってあるのか?

 

 

そして赤ちゃんの要求に応えられる。それに必要なこちらの能力とは想像力に他ならないのではないか。想像力を規定するのは、どれだけ固定観念を取り払えるかということ。もちろん固定観念を取り払うことなどできないのだけど、「自分」というものを一旦置いておくということが重要だ。

先ほどの話と似た話だけど、「知識」というものは全くいらない。よく観て、感じ取り、想像力を駆使して要求に応えること。既存の方法に縛られる必要など何もないではないか。

 

 

 

臨床も本質は同じ

 

さて、赤ちゃんをあやすというテーマで

 

・赤ちゃんとの信頼関係

・赤ちゃんが何を求めているのかを感じ取れる

・赤ちゃんの要求に応えられる

 

ということをザックリ書いてみたけど、これが臨床でも結局は超重要!というか、これができるということが大前提で、その先にしか知識や技術は必要ないわけです。

 

赤ちゃんが抱っこを求めていることが分かったら、抱っこをしてあげればいい。赤ちゃんがお腹をさすって欲しがっているとわかれば、お腹をさすってあげればいい。

 

臨床だって、患者さんが何を求めているのかがわかるからこそ、どこをどうすればいいかが分かるからこそ、自分の持ちうる知識や技術が活きてきたり、また持ちうるもので対応できない場合に想像力を働かせ、工夫し、そしてまた必然性に迫られ勉強していくものなのではないかと思う。

 

臨床では評価をしっかりして治療法を選択するというのが一般的な考えだと思うし、僕もそう考えてきた。しかし本来的には観てわかるから、治療法が分かるから、その確認としての評価を選択するのではないだろうか。 

 

 

 

 

僕が新人の頃、偉大なPTの先生に言われたこと。

 

「勉強して患者さんを診るのではなく、患者さんを診てから勉強しなさい」

 

 

 

そして、僕が尊敬してやまない友人の尾森くんの言葉

 

「知識や技術を身につけるほど治療が下手になるのは、何に役立てるかが間違っているから。この何にということが本当に重要なのであり、必然性の正体」

 「見て分からないものは、考えたところでわかるはずもない」

 

 

 

この言葉を僕はまだまだ自分の実感として、自分の言葉にできていない。

 

だけど、この言葉にこそ大切な物事の本質があるように感じる。だからこそ彼の言葉は大切にとっておきながら、分かった気にならずに目の前のことに向き合っていきたいと考えている。

 

 

そして、その言葉の意味するところを、赤ちゃんを通じて自分の実感として少しばかり感じたことがあったので、こうしてブログにしてみた。

 

 

 

 

そんな素晴らしい感性を持っている尾森くんを呼んでのワークショップを9月30日に開催します。

興味のある方は、まずはHPの案内文だけでも読んでみてください。

素晴らしい感性がその文章に表れています!

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