雨女と晴れ男の割合に関する一考察
“人は皆、この世に生まれた時から背負っている運命がある”
という話を聞いたことはあるだろうか?きっとあるだろう。あるよね??
どうも説教くさくて拒絶反応を起こしそうになる話ですが、実際に変えることのできない運命ってありますよね。
生まれた家系は選べないし、顔も声も変わらない。アレのサイズだって変えられなければ、あの時の、あの、その・・・
だけど自分次第では性格だって変えることはできるし、未来は変えられる。次にやる行動は自分で選択できるはず!未来は自分で切り拓くんダァァァァァーーー!!!
って言いたいところですが、その変えたはずの未来を「それがあなたの本来の運命なのよ」とかスピリチュアル系50代美魔女カウンセラーに言われたに日は何も言い返す言葉も見つからず、ただただ仕事を早退してパワプロに打ち込みたくなる。
そんな運命を生きている中で、変えることのできる運命なのか変えられない運命なのか微妙なラインのものも多く存在する。
その代表的なものが「雨女」または「雨男」ではないだろうか?
世の中には雨女と言われる女性と、晴れ女と言われる女性がいる。
また同様に、雨男と言われる男性と、晴れ男と言われる男性がいる。
これは生まれ持った星なのか?変えることのできない運命なのだろうか・・?
あなたは雨女、または雨男ですか?
と聞かれたら、なんと答えるだろう?
この質問に対する回答結果の統計があります。
なんと1万人以上の日本人にアンケートを取った結果、その回答は33%が「はい」と回答し、67%が「いいえ」と回答するという結果であった。これもまた微妙なラインである。
この調査結果から言えることは、33%の人間が“自称雨女・雨男”であり、67%が“自称雨女・雨男ではない”ということだ。
あくまでも“自称”であることが重要であり、ここには自己認識というフィルターがかかっていることを注意していただきたい。
ちょっと待てぇえいぃぃぃ!!
かの有名なユーリックによると、自己認識ができている人はなんと15%しかいないというデータがあるそうな・・
すみません、ユーリックって誰ですか?
ということはだな、33%の自称雨女・雨男のうち自己認識できている人は15%ということになる。85%は自己認識できていない。自分のことを正しく認識できていないということ。
なのでこの理論を用いると、
33/100×15/100=495/10000⇨4.95%
自称雨女・雨男は33%であるが、本当の雨女・雨男は4.95%であり、残りの95.05%は雨女・雨男ではないということです。
さらに67%の自称雨女・雨男ではない人のうち自己認識できている人は15%
67/100×15/100=1005/10000⇨10.05%
つまり本当に雨女・雨男でない人は10.05%であり、残りの89.95%は雨男・雨女ということになります。
これらを「世界がもし、100人の村だったら」的に当てはめると
100人のうち、33人は自称雨女・雨男です。
そのうちの4人か5人が本当に雨女・雨男であり、28人か29人は実際は違います。
また100人のうち、67人は自称雨女・雨男ではありません。
そのうち6人か7人が実際に雨女・雨男ではなくて、60人か61人は雨女・雨男です。
つまり100人のうち真の雨女・雨男は64人〜66人であり、雨女・雨男でない人が34人〜36人ということになります。
約6割強が雨女・雨男、約4割弱が雨女・雨男でないという計算になります。
免疫でいうところの顆粒球がちょっと多くリンパ球が少ない、やや交感神経優位な状態と考えられる数値です。
どうですか?驚きですよね。きっとこの村のお祭りはだいたい雨です。
次に「そもそも雨女・雨男とは何か?」という、本来なら最初に考えるべき命題について定義しておこう。
「雨女」を現代の大辞典ことWikipediaで検索すると・・
雨女とは、雨を呼ぶとされる日本の妖怪。また、その行動が雨を呼ぶかのように思える女性もこう呼ぶ
雨を呼ぶ妖怪、または雨を呼ぶ女性・・・
ここでは前者を優先して妖怪と定義することが望ましいでしょう。“また”と記載されている時点でそれは付け加えられた副次的な意味と考えられます。本来の意味は前者であると考えるのが自然なはずでしょう。
つまり、この定義を先ほどの統計に当てはめると
日本人の約6割強が雨を呼ぶとされる妖怪であり、日本人の約4割弱は雨を呼ぶとされる妖怪ではないということができる。これまた驚きの事実。
この記事を読んでくれたあなたはきっと驚きの連続だったことと察します。
「あいつ妖怪だったのかな?」
「言われてみれば確かに妖怪っぽい所作の友達が6割くらいいる気がする・・」
「私やっぱり妖怪なのかしら?」
世の中には変えることのできない運命がある。
“雨女”というとまだ変えられる希望が持てそうだけど、“妖怪”となると絶望的に変えられなさそうな印象はないだろうか?
ここにきて重要なことに気づいた。
僕は一体何を書いているんだ?ということ。
こんなブログを綴っているのは産んでくれたお母さんに申し訳ないので、最後は少しマジメにまとめようと思う。
このブログ記事で言いたいことは、
「自己認識を正しくできている人は15%」というよくわからない結論と数字だけを持ち出して、このようによく分からないデータに当てはめて使うことで、本当によく分からない結果をなんとなくそれっぽく述べられてしまうということに。
でも、こういうことは今の情報過多時代には散見されるわけなんです。
言葉や数字というのは非常に抽象的な概念であり、用い方を間違えれば全然違った結論を導くことができます。抽象的であるということは幅があるのです。言葉はそれ自体ではないということです。
なので情報を読むときは「いや、おかしいだろ!!」というツッコミを常に意識しながら読みたいところ。なんでもかんでも白黒ハッキリさせて結論付けようとするとおかしなことになるわけですね。
最後だけめちゃくちゃマジメな感じですが、マジメな感じで文章を書くとお腹が痛くなるのでこのへんで。
お読みいただきありがとうございました。
衝撃の事実〜インドカレーに隠された秘密〜
「騙された!!」
誰もがそういう経験を一度や二度、もしくは三度や四度、さらには五度六度とお持ちではないだろうか。
この世界は騙し合いで成り立っている。いかに相手を騙し、また騙されたふりをしながら騙してきた相手を騙すか。
かのオスカーワイルドはこう言った。
「結婚の一つの魅力は、双方にとって騙し合いの生活が絶対必要となることだ」
すみません。オスカーワイルドって誰ですか?
このように現実世界を取り巻く騙し合い。その騙し合いの螺旋に疲弊しきった人間に与えられるもの。それが「悟り」である。
後ろ姿美人。その優雅な後ろ姿に騙される男性は少なくない。
目の前を歩くスタイルの良い女性。髪質も美しく美脚。ボンキュッボン、シュッ、スラ〜である。
そこで低脳な動物である「男性」がする行為は、『追い抜きざまにさりげなく振り返って顔を確認する』という卑劣極まりない行為だ。
そして低脳の悲しい男どもは「思っていたのと違う!」と言うなんとも身勝手な言い分を口にし、その身勝手な妄想によって生じたギャップで気分を落とす。なんとバカな動物なのか。しかもその時の一言は「騙された・・」なのだ。
大脳は発達しすぎてしまった。想像力は様々な恩恵を人間社会に与えてくれたが、それが暴走することで自ら不幸に陥る人もいる。
「騙した」「騙された」というやりとりは基本的に頭の中で行われ、人間が進化と共に獲得した一つのコミュニケーション手法でもあり、それは時に人を笑顔にし、また時に不幸にもする。
高校生の時に仲の良かったO君と言う友人。
彼は後ろ姿美人を見かけると、必ず追い抜き振り返った。足の速い男であった。
振り返るとその度に満面の笑みを浮かべるか、怪訝そうな顔をしていた。なんとも分かりやすい男だ。典型的なバカであった。
そんなバカ友のO君もついにはこの「騙し合いの螺旋」に疲弊した。
後ろ姿美人を見かけても追い抜かなくなったのだ。
そして満面の笑みでこう言った。
「後ろ姿だけで十分!顔は想像できるし!」
人間の想像力万歳!!
これは新たな視点であった。少なくとも当時の僕にはそう言った発想はなかった。
騙し合いの螺旋に疲弊した人に与えられるもの。それは「悟り」。またの名を「開き直り」という。
あれから14年ほどが経つ。
僕はまだまだ騙し合いの螺旋の中にいる。まだO君のような悟りを開けずにいるのだ。
この14年間で世間は大きく変わった。
ノリピー逮捕
副都心線開業
ジダン頭突き
レバ刺し食べたい・・
そして何より大きく変わったのが、インド料理屋の件数が大幅に増えたということであろう。
その増え方はこの10年でなんと約5倍!都内は道をあるけばインド料理屋に当たるというほど、どの駅にもインド料理屋がある。どの街にもインド料理屋がある。どのマンションにもインド料理屋がある。
美容院と歯医者はコンビニより多いと言われるが、そこに並ぶのではないかと多くの評論家の注目を集めている。
なぜインド料理屋がそこまで増えているのか?
そのヒントを僕に与えてくれたのは、世界を旅する治療家カキザワさんであった。
彼と初めて出会ったのは2017年10月某日。
僕は彼が世界を旅している最中からのファンだった。ラメラメの厚紙で作った「健太郎ウチワ」を片手に、そしてもう片方の手にスマホを握りしめ、彼の旅のブログを楽しみに日々を過ごしていた。まさに僕の退屈な日常のスパイスであった。
そんなスパイシーカキザワは出会っていきなり僕にこう言った。
「YOU!!インドにカレーという食べ物はないんだYO!!」
これは驚きだ。インドにカレーという料理がないだと?その事実も衝撃であったが、なにより驚いたのは僕がインドカレーがそこそこ好きな三十路男子だと言うことを見抜いていたことだ。
さすがは世界のカキザワ。3の倍数でアホになることもなく、冷静に僕のインドカレーに対する中途半端で熱しすぎず冷めすぎずのいい塩梅な愛を見抜かれたように感じた。
その後20分間ほど、世界のカキザワの世界レベルな人間洞察力に対する胸の高鳴りが抑えきれず、一人吐息が荒くなっていた。一人で公園にいたら救急車、いや、パトカーを呼ばれるレベル。
徐々に呼吸・脈拍・奇声が落ち着いてきた。それと同時に理性という名の論理的思考能力が戻ってきた。
「インドにはカレーという料理はない・・・だと?」
そんなバカな?である。
カレーはインドの国民食のはず。インドが世界的にも優秀なエンジニアやカバディ選手を輩出している秘密は、そのスパイシーなカレー文化にあるはずじゃなかったのか・・・?
インドにカレーはない?スパイシーカキザワは世界一周しているからどこかの国と間違えてるんじゃないか?時差ボケがまだ直っていないのか?
そんな懐疑心から僕は現代の大辞典こと、Wikipediaでカレーについて調べてみた。。
インド料理は香辛料を多用するため、外国人の多くはインドの煮込み料理を「カレー」と認識している。しかし外国人がカレーと呼ぶインドの煮込み料理は、サーグ、サンバール、コルマ、ダールなど、それぞれに固有の名称があり、「カレー」という料理はない(wikipediaより引用)
なんと・・・
本当だった。。
インドに「カレー」という料理はないのだ。
ではなぜ「カレー」という名称が一人歩きしているのか?
それについてもスパイシーカキザワ氏はこう話す。
「インドカレーという言葉を使った方がガッポリ儲かるからや。みんなそうやってお店を出しているんや。日本のインド料理屋もみんなガッポリ儲けてるで」
さらに・・・
「よく看板見てみぃ。インドカレー屋とは書いてないねん。インド料理屋や。なんでインドカレーじゃなくてインド料理かって?そりゃインドカレーなんてないからや!」
ヒィィィ・・
僕はもう返す言葉が見つからなかった。
悔しい。悔しすぎる。
何が悔しいか?それは騙されたとかそういうことじゃない。
自称インドカレー好き(そこそこ)を名乗っておきながら、そんな事実を知らなかった自分が悔しいんです。
なぜ知らなかったんだ・・好きだったんじゃないのか?
でも好きなのは「そこそこ」だし。
そもそも好きとか嫌いとかっていうのは単に「味」に対するものだ。歴史や文化に関しては知らなくても、味が好きならそれでいいじゃないか。何も自己嫌悪に陥ることはない!
そしてインドカレーと言われるそれは「美味い」
インドカレーと言われるそれは日本のカレーとは違う。
とにかくスパイシー。身体にも良い。サーグとかダールとか細かい種類があると言うが、そんなのはどうでもよく思えてきた。「美味いものは美味いのだ!」
この瞬間、僕は騙し合いの螺旋から降りた。そう。「悟り」を開いたのである。
僕を悟りの境地へと導いてくれた、世界のカキザワことスパイシーカキザワさんには心底感謝したい。
धन्यवाद
こうして騙し合いの螺旋から僕を下ろしてくれたカキザワさん。旅の最中のブログはとてもスパイシーで読み応えがあるので、ぜひ多くの人に読んでいただけたらと思います。
世界一周治療の旅を経験し、その経験から繰り出される言葉一つ一つが衝撃的なカキザワさん。
そんなカキザワさんの生のトークイベントが9月16日に横浜で開催されるのです!!!
対談イベント〜山中錠一×柿澤健太郎
「これからのセラピストの働き方を考える」
沖縄で産前産後整体院を夫婦で経営されていて、全国にファンのいる山中錠一さんと、世界一周の旅から帰ってきて、その経験も含め今日本国内に留まらず海外にも足を運び働き方を広げている柿澤健太郎さんの対談イベントです!
セラピストの方々はもちろん、「自分の人生を自分で切り開きたい!」と考えている方なら職種関係なく、素晴らしいお話が聞けることになると思います。
対談というのは登壇者の掛け合わせによって全く予測ができず、その時だけの素晴らしい時間・空間が生まれるイベントです。このお二人の創発する空間を存分に味わっていただければと思っています!
みなさま、9月16日に横浜で世界のカキザワに悟りの境地に導いてもらいましょう◎
会場もみなとみらいのオシャンティーな空間です。開始時間まではみなとみらいで遊びまわっていてください!
〜ちょっと雑学コーナー〜
今回の記事を執筆するにあたり、国立国会図書館で膨大な資料を目に通したわけではありませんが、興味深い事実を知りました。
それはなんと・・日本でインド料理屋をやっているのは、だいたいネパール人であるということ。
インドにはカースト制度がまだ根強く残っているため、階級の低い人は日本には来れず、階級の高い人はもう出世してしまいインド料理屋などをやりには来ないとのこと。
ネパール人が日本に出稼ぎに来ているケースが多いそうです。
いかにもインド人が営んでいそうな「インド料理屋」を開く理由も、その方が儲かるから。
実際にインド料理屋に足を運んだ際は「Where are you from?」と聞いてみてください。きっとほとんどが「ネパールやで」と回答されることでしょう。
今の自分にできること。
支援・お金をどう届けるか?
セミナーについて
Presents Study Group特別セミナー
〜復興支援に向けて今できること〜
【内容】
はじめに:17:00〜17:10
被災地の現状 〜広島県PT 橋本康太さんからの報告〜
第1部:17:10〜19:00
【骨粗鬆症に対する考え方〜栄養療法と内臓アプローチ〜】
中村 宜敬 先生(理学療法士、日本内臓ヨガ協会 代表、NPO法人presents食育部長)
高齢者に多い転倒による骨折。
その背景にある問題点の一つに、『骨粗鬆症』が潜んでいます。
臨床で骨粗鬆症の治療(服薬)をされている方はとても多いですが、その中でも改善する人と改善しない人がいます。
その違いは何でしょうか?
骨粗鬆症に対してセラピストが介入できる事は何があるのでしょうか?
今回は、骨粗鬆症の方の身体で起こっている事を病態から紐解いていき、そこから何を考えなくてはいけないのか、セラピストとして何が出来るのかを座学で学び、実技では骨粗鬆症と関連がある内臓の評価と徒手的アプローチをお伝えします。
第2部:19:10〜21:00
【触診の探求〜感じる身体、伝わる心〜】
佐々木 隆紘 先生(理学療法士、NPO法人presents代表理事)
臨床では客観的評価が重視され、誰もが同様の結果を出せるアプローチが求められます。
その反面、実際の臨床場面では主観的評価を無視して介入するケースはかなり限られると思います。
しかし主観的評価や治療アプローチは個人差が大きく生じてしまいます。また同じように治療しているつもりでも、その日その時その場によって結果が変わったりするものです。それはなぜなのでしょうか?
今回は「触診」をテーマに、セラピスト自身の在り方がどれほど評価・治療に影響するのかを座学と実技を交えて体感していきます。新人セラピストからベテランセラピストまで、このテーマの中から何かを感じ取っていただけたら嬉しく思います。(内容はリアル臨床2017で第2位に入賞したテーマをベースに、実技を増やし改良してお伝えします)
【日時】
7月21日(土)
17時00分〜21時00分
※途中退室、途中参加も可能です。
【場所】
【対象】
専門職向け(医療従事者、各種トレーナーなど)ですが、興味のある方ならどなたでもご参加いただけます
【参加費】
通常 5,000円
学生 2,000円
今回の参加費は全額被災地(橋本康太PTの元)へ届けます。
【定員】
20名
【持ち物】
ノート・筆記用具
動きやすい服装
血液検査データ(お持ちの方のみ。栄養療法の講義で理解を深めるために使います。)
【申し込み】
コチラからお申し込みください
自己否定の必要性
理学療法を実施する上で、最も大切なことは何か?
そう問われれば僕はまず「理学療法が適応かどうかを見極めること」であると思う。
レッドフラッグでないか?
理学療法でどこまで改善が見込めるのか?
どこが限界なのか?
もちろん自分一人での判断は難しい。
医療職として、他職種との連携を前提とした判断が求められる。
そして、そもそも理学療法とは何か?という問いが生まれる。
徒手療法・運動療法・物理療法・・・様々な治療技術が理学療法として存在し、私たちはそれを患者さんに提供しながら、患者さんがその人らしい生活を送れる状態を目指すのである。
どんなに崇高な学術に基づいたエビデンスであっても、それは目の前の患者さんにとって役立つかなど分からないし、無力である。
重要なのは患者さんと向き合い、何が問題となっているのかを見極め、その上でエビデンスを適切に扱えること、またエビデンスがなくとも適切な介入ができることである。
適切という表現を用いたが、適切というのはもちろん患者さんにとってであり、患者さんのHOPEを達成するために相応しい介入ということである。
よく「治療は成功したが、患者は死んだ」という表現が用いられることがある。
これは物理的な死という意味だけでなく、QOLという観点からの死を意味することもあるのではないだろうか。そこは個々の主観であり、科学的に解明することは不可能であり、患者さん本人が置いてけぼりにされていないかをよく考える必要がある。
セラピストの介入によって、患者さんの何が変わったのか?逆に何が変わっていないのか?変わった部分にだけ目を向け、「良くなりました」というのは大変な自己満足ではないだろうか。
人は自分の考えを否定されることを嫌うし、自らを否定することも嫌う。
安全を求めたい。認められたい。そういった欲求は誰にでも共通している。
しかし自己否定を繰り返さずに、いかに自分の考えを深めることができるのか。
臨床においても、自分の推論というものをどれだけ批判的に捉えられるかは重要だ。
一つの評価から一つの結論を導くことはできない。
必ず他の評価結果と統合して、信頼性を高めていく。
筋肉が硬いから痛みが出ているわけではない。触診だけで痛みの原因を判断することなどできない。
自分の評価結果や考え方・解釈を疑うこと。そのためには現象を1つの理論に当てはめずに、様々な角度から検証していくことが求められる。
自分自身が習得した知識や技術、自分が過去に経験し奏功した事例など、先入観が先行し自分の仮説に当てはめて解釈したくなるものである。
そして自分自身の仮説に賛同してくれる意見や、それを後押ししてくれる論文ばかりを受け入れ、その結果患者さんからの大切なサインを見落としてはいないだろうか。
くだらない派閥争いも
何かを一括りにして概念化した言い争いも
きっと「分かっている人」は相手にしていないし、「分かっていない人」がムキになって言い争っているだけ。
そして情報弱者と言われる人たちは翻弄される。
情報弱者というのは、情報に疎いのではなくて、自ら考えることのできない人のこと。
今の時代はこの差がどんどん大きくなっている。
情報が出回らない時代は、自ら考えて選択するしかなかった。
しかしこれだけ情報にさらされる時代において、自分がいかにその情報を扱えるのかが重要であることは言うまでもない。
結局は「自分」をいかに成長させていくか?であり、そのためには批判的に自分を俯瞰して捉え、自己否定し、次の一歩を歩み出すしかないのだろうと思う。
理論を当てはめない
大越アナ「サッカーは偶然性の大きいスポーツですか?それとも全てに根拠がありますか?」
— peri (@kaname_mochi) 2018年6月24日
岡ちゃん「複雑系ですね。ルールはシンプルでも不定数nが沢山ある方程式、要素を分解しても因果関係がハッキリしないし、パーツを直しても全体のバランスが崩れる。」
セネガル戦 NHK BS-1 副音声が深かった。