何に取り組むか?
丁寧に人の話を聞く。
— 佐々木 隆紘(presents代表) (@sasataaaaa) 2018年10月8日
丁寧に触れる。
分からないことは勉強する。
最新の論文に目を通す。
すべて大切なこと。いきなりすべてのレベルをグンと高められるわけではないから、意識的に何かテーマを決めて取り組む期間は重要。そしてその期間が、自分にとっての「当たり前」のレベルを高めてくれる。
昨夜こんなツイートをしたけど、Twitterでは文字数制限もあったので改めてブログの方で考えを綴ってみたい。
このツイートに書かれていることというのは至って普通のことであるけど、信念対立が起こりまくってるこの業界では無意識的に「〇〇が大切!◇◇はそんなに大事じゃない」などと言った声もよく聞かれます。
例えば「最新の論文を読むのが大切!深い触れ方なんて練習してる暇あるなら論文読め!」とか「エビデンスは大事じゃない。大切なのは目の前の患者さんに結果を出すことだけ!」みたいなね。極端すぎる!
このような言葉の裏側にどのような意図が込められているか分からないので、こういった発言を全て否定する気はありません。
よく分からない言葉を受け取り、それを解釈する過程には慎重さが必要です。慎重にその言葉に対する「ツッコミ」を持たなければ、分けの分からない論理を洗脳のように押し付けられます。
いわゆる情報弱者などと揶揄されるような、情報をそのまま受け取り、何が自分の考えで何が他人の考えなのか分からなくなるという状況に陥ることもあるかもしれません。
こうならないためにも気をつけたいのは「白黒ハッキリさせる」という対立的な思考に陥らないこと。正解探しを始めると、他人の意見が正解のように感じてしまいます。とくに権威ある人の意見などは。
そもそも「論文と触れ方と、どっちが大切なのか?」だなんていう問いは比べること自体がおかしな次元であり、個々によって課題が異なるわけだからその時、その状況で異なることです。
意見というのは、その人の歴史や背景が固定観念となり表出されるでしょうから、どんな人が言った言葉なのか?もとても大切なことだと思います。
年間に論文10本書いてる人の意見と、全く書いたことのないゴッドハンドと呼ばれる人の意見では全然違うでしょう?
このような場合に重要なことは「論文の情報量」が蓄積されていくのと同じように「触れ方」にも、そのことと向き合ってきた時間は反映されてくるということです。一見同じように見えても、触れる深さのようなものがあるわけですから。
厄介なことに「触れる」という行為の深さというものは可視化することもできなければ、記号化することもできない。つまり科学では扱えない領域であるということ。
しかし触れるという行為の違いは千差万別。「あの人にやってもらうとすごく楽になる」という個人差を科学は嫌いますが、それが当たり前にあるのが現実です。
「 アートかサイエンスか?」という問題も論点がおかしくて、どちらも大切なこと。アートは客観的には分かりにくいけど、主観的にはむしろ分かりやすいものです。
人間を相手にしている。自然を相手にしている。不確定要素だらけのこの世界では、科学で全てを捉えきれない。だけど科学で方程式を知れることもある。傾向を知れることもある。
しかし実際に起きていることは、具体的な「今ここ」の出来事であり、それを捉えるのは自分の感覚であり主観。アート抜きには臨床はできないけれど、サイエンスを尊重することで救える人が増えるのもまた事実である。
課題を捉える
丁寧に人の話を聞く。
丁寧に触れる。
わからないことは勉強する。
最新の論文に目を通す。
どれも終わりのない課題である。
「いやいや、日本語わかるから人の話くらい聞けるし」と感じる人もいるかもしれないけれど、言葉を意味として捉えてしまうと相手の話は聞けない。というのが最近僕が強く感じることでもある。
先週のワークショップを終え、この1週間はかなり意識的に「相手の話をしっかり聞く」ということをテーマに日常を過ごしていた。
この取り組みをしていて思ったのは、相手の話をしっかり聞くというのには相当な集中された状態が必要ということ。客観的に感じ、そして間主観的に感じる。相手の心境、言葉の選び方、声のトーン。そんな細かい要素を分解して意識しながら聞いているわけではないけれど、全体として相手の声を味わう中で様々なことを感じた。
「あぁ、自分はまだまだ人の話を聞けていないな」ということを改めて知れたように思う。この1週間だけでも変わった部分はかなりある。
そう考えると「話を聞く」という行為にも終わりはない。
これはアートな部分だと思う。だけど臨床において絶対的に必要なことである。
臨床は患者さんのHOPEに基づいて組み立てられるもの。
そこがスタートになるのだから、そのHOPEをしっかり聞けるかどうか?患者さんの想いを、歴史を、今の気持ちをしっかり聞けるかどうか。それが評価・治療の構造にもろに影響してくることは想像できると思います。
自分自身に対する課題は絶えない。
海外論文を読む習慣もないし(本来は医療職として必要なこと)、臨床での疑問点を全て調べているか?と言われれば、そこまでやれてはいない。
しかし自分の中で「あぁ、相手の話をしっかり聞けるようにならないとな」という問題意識を強く持った経験があるから、そこをテーマに過ごしていた。
時間は有限であり、どこに重きをおくのかは各自の持つ問題意識によって変わってくることだろう。
その問題意識に基づいて、何かに意識的に取り組み続けること。そうすることで、その「意識的な」取り組みは、次第に当たり前となり、その人の在り方そのものに変化していくのではないだろうか。
問題意識というテーマをどのように設定していくべきか。それはそのことに必然性を感じる感性に他ならない。
であるならば、感性を磨くことが知識を闇雲に増やすことよりも先に取り組むべきではないか。感覚的に「あの勉強が必要だな」と分かるから、その勉強をする必然性に駆られるのではないのか。
人間という自然界の一部である以上、僕自身はまず感性を尊重していきたいと思う。
その感性が、知識を必要としたらそのことに取り組み続ける。頭での判断よりも、必然性に駆られて物事に取り組みたい。