ささやんブログ

"いま"を醸していく

自分をつくる

前回のブログの続き。

 

前回のブログはかなり読みにくい文章になってしまったけど(いつもか・・)、簡潔にまとめると

 

・〇〇こそが大切!という他人の主張をそのまま自分の考えにしてしまうのは危ない

・大切なことっていくらでも見つかる。自分がそれに必然性を感じれるかどうか

・自分が意識的に取り組み続けたことは、そのまま自分の在り方になる

・何に取り組むかの必然性は、自分の感性が導いてくれる

 

そんなことを書きたかったのです。

今回はこの後半の部分をもう少し突っ込んで整理してみたい。

 

 

 

 

まず「自分にとっての当たり前」をいかに作り上げていくか?ということについて、そして「なぜ感性が大切なのか」について考えを綴ってみます。

 

 

 

自分をつくる

今取り組んでいることが、すぐに自分に影響することもあるだろう。

しかし目先のそういった分かりやすい変化以上に大切なのは、今のこの選択が数年後にどれだけ影響するか?ということではないだろうか。

 

そういった意味で「習慣」をどのようにデザインするか?というのは非常に重要なことである。

 

 

習慣というものは言い換えれば、その人にとっての「当たり前」であり、在り方そのものである。

例えば「早起きをして朝1時間本を読む」ということを習慣化していくとする。

その朝1時間の早起きには、最初は努力を要するだろう。目覚ましの音が鳴っても「まだ眠い」「やっぱりもう少し寝ようかな」「明日からまたやろう」と考えるかもしれない。しかしそこで体に鞭を打って起きる。そして読書をする。

 

そんな習慣を意識的に続けていくと、そのうち「早起きして読書」は当たり前になる。

それをすることで何かが大きく変わるかと言われれば、すぐに目に見えた変化などないだろう。しかし早起きすることも、読書をすることも、その人にとっては「当たり前」になるのである。

 

初日の読書量の差は、1時間分の差であるかもしれないけれど、1年後の差は365時間分の差である。

 

習慣が変わってしまえば、特に努力をしている自覚などなくとも、これだけの差が生じる。そしてその差は時間経過とともに開いていく一方である。

大切なのはこのように「当たり前にやっている」という状態。努力を努力だと思わなくなるまでやり込むことではないだろうか。

 

理学療法士であるならば、新人のうちにこの「当たり前」をどれだけデザインできるか?そこが成長を大きく左右する。

 

 

例えば目の前の患者さんの筋力低下があったとする。筋力低下があるから筋トレ!という選択を自動的にしてしまうセラピストと、「なぜ筋力低下しているのか?」「どうすれば筋力がより回復するのか?」と考えながら向き合っていくセラピストとでは、時間経過とともに差は広がるばかり。

 

考えるのは最初はとても辛い。努力を要する。わからないことだらけだから言葉に詰まったり、手が止まることもあるだろう。

何も考えずに筋トレしている方が患者さんも安心するんじゃないか?

何も考えずに筋トレしている方が患者さんもよくなるんじゃないか?

 

そんなことを僕もよく新人時代は考え悩んでいた。

だけど当たり前に考える習慣をつけるということは、確実に自分の「考える力」を育ててくれる。ストレスがかかるから人は進化する。ストレスを加え続けるからその能力が育つのである。

 

それは今振り返って感じることであり、それと同時にまだまだ自分自身の課題を感じるからこそ、こうして今もブログを綴っている。

 

これからどんな自分をデザインしていくか?

それはつまり、日常的にどのような負荷を自分にかけ続け、その能力を育てるのか?ということ。

 

無意識的に、当たり前に「それ」を行える自分になるためにも、まずは意識的に。

志向性を持って物事に取り組み続けることが大切だと思う。

 

 

知識からより、感性から

 

今の自分には何が必要なのだろうか?と考える時。

 

はたまた、目の前の患者さんにはどのようなアプローチをしていけば良いか?を考える時に、自分の知識の引き出しから行動を選択する場合は多いのではないだろうか。

 

 

僕自身も以前はそう考えていた。

引き出しを増やすことで、自分にできることは増えていく。

だから勉強して、自分の知識や技術を増やしていく。

 

それはその通りなのかもしれないけれど、ではその知識や技術はどのように増やせばいいのか?とさらに深く突っ込んでみる。

 

特に何も理由なく、面白いと言われたセミナーを受講したり、オススメの本や流行の本を購入してみたり。

 

それもまた一つの入り口としてはありだと思う。

しかし本来的には「この勉強が必要だ」と、根拠がなくとも気付ける感性が大切になるのではないかなと思う。

 

 僕自身もオステオパシーを勉強したきっかけはそうであった。

患者さんの身体を触っていて、特に根拠はなかったけど「この硬さは自律神経からきていそうだから、自律神経について勉強していかないとな」と考えたから。

 

つまり、感覚的に「それ」が必要なんじゃないかと感じたから「それ」を勉強し始めたということ。 

 

 

勉強していくから分かるようになるのではない。

分かるから、勉強していくのである。

 

この考え方に否定的な人はおそらく多いと思うけれど、僕自身はそう考えている。

 

「勉強していけばわかるようになる」というのは要素還元主義的な物事の考え方である。

反対に「わかるから、それを勉強していく」というのが全体論的な考え方ではないだろうか。

 

料理を作る時だって、何を入れれば美味しくなるか?なんて先に分解して考えても、結果的にその想像通りにはならないことも多い。

 

まず美味しいものを作る。そこから何を入れたからこんなに美味しくなったのかを検証したり、勉強していくこと。

 

臨床で言えば、まず何が問題かが分かること。分かるからこそ、どんなアプローチをすればいいのかを想像できる。想像できるからこそ、オリジナリティ溢れる治療も思い浮かぶし、また体系化されたものを学ぶ必然性も感じられるかもしれない。

 

分かるからこそ「何を勉強するべきか」も分かるんじゃないかなとも思ったりするわけです。

 

 

大切なのはまず「分かること」

 

触れて分かる。見て分かる。

分かるから、何を勉強していくかが決まる。

 

 

感性が先にあり、そこから知識が積まれていく。

まだまだこの世界は既存の知識で捉えきれないことだらけ。

 

だけど感覚的には何か分かるということがある。そんな風に思うのです。