他者体験という価値に気づく〜読書という荒野を読んで〜
NEWSPICKSアカデミアから本が届いた。
表紙には積み重なる書籍の中に一人カメラ目線のコワモテ中年男性。
「コワモテの」とか言うのも失礼ですが、それだけ表紙にもインパクトがあります。
読んでみた感想を書いてみたいと思うけど、この本を読むと感想とかすぐに書くのが浅はかな行為なのではないかと迷いも生じる。
しかし書く。なぜなら自分の中でモヤっと言語化できずにいたものが少し言語化できそうな気がするから。それではレッツらGO!♫
実用書ばかりでなく、小説を読むこと。想像力を駆使すること。
著者の見城さんは書籍の中でこう述べています。
読書の意味とは、自分一人の人生では経験できないことを味わい自分の問題として捉え直し、他者への想像力を磨く点にある。
僕は本を読まない人間ではありませんが、小説はこれまであまり読んできませんでした。きっと「何か役に立つ情報」とか「考え方のベース」を学びたい。そんな気持ちが根底にあったのでしょう。
読む本は健康関連や身体関連の書籍から哲学系の書籍など「人間とは何か」という僕の好奇心の赴くがままに本を買い漁ってきました。
その中で、自分の視座で相手を見るのではなく相手の視座で世界を見ることが大切なんじゃないか!と気付いたのがここ数年。そして「間主観性」や「間身体性」という言葉に出会い、これこそが「自分」という狭い固定観念を打ち破ってくれるヒントになるんじゃないか。「人間とは何か?」を知るためにとても大切な視点なのではないかと感じていたわけです。
そして、こうしたことを思っていたそばから今回出会った見城さんの言葉。
僕は後ろから・・いや、正面から頭を叩かれるような気持ちになった。
「あぁ、自分はまだまだ狭い世界で生きていて、狭い世界で間主観的な経験をしようとしているに過ぎないな・・・」と。
自分の世界を広げるには他者の存在が必須
いつも通りの朝を迎え、いつも通りの通勤路。
いつも通りの業務を終えて、いつも通り帰宅して寝る。
そんな生活をしている人の心身は常に安定していることでしょう。
当たり前の生活には刺激もなく、刺激がなければ変化しないのは全ての事象において言えることである。
ではどうすれば刺激を自分自身に与えられるのか?
その身近な手段というものに「読書」がある。
特に優れた作家は、その根底にある思想や原体験が少し常軌を逸している部分があるのではないかと・・
そんな作家が書きおろす小説には、自分が普通に生活しているだけでは到底たどり着くことのない境地、葛藤、物語があるわけです。
小説を間主観的に読む。これが自分自身の狭い見識を広げてくれる体験になる。
登場人物に思いを馳せる。その時の自分の意識はここにあらず。
いつもの通勤電車は他者体験に変わり、自分の世界を広げてくれるきっかけになる。
小説だけでなく、偉人の伝記や戦争関連の書籍など・・平和な「いつもの自分」では到底辿り着けない物語に触れ、想像力を駆使して読むこと。それが自分を成長させる基盤になっていくのではないでしょうか?
臨床という現場でも想像力が基本中の基本
僕の仕事でもあるリハビリテーションの現場。患者さんと1対1で向き合いながら、患者さんの希望に沿って共に前に進んで行く仕事である。
どのような治療プログラムが望ましいか?、どんな運動が好ましいか?
近年では「科学的根拠に基づいた理学療法を」という指針が普及しており、これは理想的な手段であるのだと思いますが、あくまでも手段は手段であります。
臨床の基本は「相手を知ること、知ろうとすること」
そこに対する想像力を働かせなければ、セラピストの独りよがりの機能訓練にしかなりえない。
患者さんがどんな世界を見ているのか?
私たちは「患者さんを見る」のではなく、「患者さんの見ているものを見る」ことが求められるのではないでしょうか。
そういった想像力を日頃から鍛えるのにも、日々の読書。それもただ情報として読むのではなく、想像力を駆使して、思いを馳せて読むことが大切なのだと思います。
僕は読書という荒野を読み終えてから、久しぶりに「夜と霧」が読みたくなりました。
ただ普通の生活をしている。それがどれだけ幸せなことか。
「人間とは何か?」そんな知的探究心から昔買って読んだ一冊ですが、今は全く違った読み方ができています。
これまでの自分の未熟さに悲しくなります。
そしてこれから熟していきたい。読書と共に、対人関係と共に・・・