ささやんブログ

"いま"を醸していく

赤ちゃんをあやすように臨床に向き合う

長男が生まれて今日で4か月。

 

あまり手のかからない子というか、夜もガッツリ寝てくれているし助かっている。とか言っても僕が仕事中に妻は大変な思いをしているかもしれないけど。。

 

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それでも当然、泣いて泣いてどうしようもなくなる時がある。

それは「たそがれ泣き」などと言われるような時期的なものもあるのだけど、親である僕らの態度が反映されている場面も多いと感じる。

 

 

 

例えば、僕が「今日は2時間子供と遊んだら、そのあとは仕事をしよう」なんて考えているものならば、2時間経って「さて、そろそろ・・・」という頃にギャン泣きしたりする。

 

そこで子供をあやしても、全然泣き止まない。

僕は自分の中で勝手に立てた計画が崩れていくのに焦り、苛立つ。

 

するともう悪循環。あやしているつもりでも、全く泣き止まない。

 

赤ちゃんは感覚で生きている。

その感覚というのは非常に繊細で、大人である僕ら周りの人間の心の状態をそのまま感じ取るということを、これでもかと思い知らされる。

 

 

 

 

心の余裕

 

自分のことしか頭にない状態は、要するに「いっぱいいっぱい」であり、余裕などない。この余裕というのは「相手と向き合える余裕」であり、タスクとか時間的余裕とかそう言った「自分」の中だけの話ではない。

 

 

このような余裕がない状態、いわゆる自己中心的な時というのは目の前の相手と向き合えない。自分の頭の中のストーリーだけでいっぱいいっぱいで余裕がない。

そしてそれは確実に相手に伝わる。子どもを通じて「これでもか!」というほどに教えてられる。

 

 

 

 

自分のことは一旦置いておく。

そんな態度を選択するとスッと心の余裕が生まれる。ある種の開き直りのようなものだ。

 

相手のために自分の時間を使う。相手ありき。相手に自分を捧げる。

 

そんな態度をとると、赤ちゃんは泣きやむことが多い。当たり前である。

そして自分がそのような態度で在れば、赤ちゃんが「何をして欲しいのか?」を察することができる。「ここを触って欲しいのだな」とか「このポジションで寝たいのか」ということが伝わって来るのである。

 

 

この「伝わって来る」というのが非常に重要であり、それは頭で考えて相手を理解しようとするとか、そんなんじゃなくて「よく観ていればわかるもの」なのだろう。

 

 

 

子どもにそんなことに気付かされ、そしてまたこれは臨床でも全く同じことが言えるのではないか?ということに気づいた。

 

 

 

泣いてる赤ちゃんをあやせるような人間に

 

泣いている赤ちゃんをあやすには

・赤ちゃんとの信頼関係

・赤ちゃんが何を求めているのかを感じ取れる

・赤ちゃんの要求に応えられる

 

簡単に書いたのだけど、現時点ではこう言ったことが大切な要素なのではないかと考えた。

 

そして、信頼関係を築くには大前提として「相手にはこちらの状態は全て伝わる」ということを肝に銘じる必要がある。これは前述したように、赤ちゃんという感覚的に非常に繊細な存在と向き合うことで知ったことのだけど、大人であれ同じ人間であることに変わりはない。潜在的なところではこちらの在り方というのは相手にも伝わるのである。

 

であるならば、こちらの自己中心的な「思惑」とか「計画」というのは相手に違和感を与えるだけであり、信頼関係には結びつかない。利害関係なく付き合うということ。それこそ言葉にすると安く聞こえてしまうけど「無償の愛」というものがそう言ったものなのではないかと考える。相手のために在る自分。そんな自分で在るということ。

 

 

次に赤ちゃんが何を求めているかを感じ取る。そのためには知識といったものは全く必要ない!ということは断固として言いたい。赤ちゃんが泣いている時に「オムツかな?」とか「おっぱいかな?」と考えたり、授乳間隔などの時間を見ながら判断する人も多いと思う。だけどそれでは赤ちゃんの本当の要求は感じ取れない。オムツを替えた直後におしっこすることだってある。その時の赤ちゃんの要求というのは、ちゃんと観て、声を聞けば「あぁ、もうオシッコしちゃったか」とすぐに分かるのだけど、知識で判断しているうちは「オムツは今替えたばかりなのに何でだろう?」となる。知識から答えを求めているうちは、その人の持つ知識の数で選択肢が規定される。そのため本当の要求にたどり着けるかどうかは知識量に委ねられることになってしまう。

赤ちゃんをあやすのに知識量に委ねられるってあるのか?

 

 

そして赤ちゃんの要求に応えられる。それに必要なこちらの能力とは想像力に他ならないのではないか。想像力を規定するのは、どれだけ固定観念を取り払えるかということ。もちろん固定観念を取り払うことなどできないのだけど、「自分」というものを一旦置いておくということが重要だ。

先ほどの話と似た話だけど、「知識」というものは全くいらない。よく観て、感じ取り、想像力を駆使して要求に応えること。既存の方法に縛られる必要など何もないではないか。

 

 

 

臨床も本質は同じ

 

さて、赤ちゃんをあやすというテーマで

 

・赤ちゃんとの信頼関係

・赤ちゃんが何を求めているのかを感じ取れる

・赤ちゃんの要求に応えられる

 

ということをザックリ書いてみたけど、これが臨床でも結局は超重要!というか、これができるということが大前提で、その先にしか知識や技術は必要ないわけです。

 

赤ちゃんが抱っこを求めていることが分かったら、抱っこをしてあげればいい。赤ちゃんがお腹をさすって欲しがっているとわかれば、お腹をさすってあげればいい。

 

臨床だって、患者さんが何を求めているのかがわかるからこそ、どこをどうすればいいかが分かるからこそ、自分の持ちうる知識や技術が活きてきたり、また持ちうるもので対応できない場合に想像力を働かせ、工夫し、そしてまた必然性に迫られ勉強していくものなのではないかと思う。

 

臨床では評価をしっかりして治療法を選択するというのが一般的な考えだと思うし、僕もそう考えてきた。しかし本来的には観てわかるから、治療法が分かるから、その確認としての評価を選択するのではないだろうか。 

 

 

 

 

僕が新人の頃、偉大なPTの先生に言われたこと。

 

「勉強して患者さんを診るのではなく、患者さんを診てから勉強しなさい」

 

 

 

そして、僕が尊敬してやまない友人の尾森くんの言葉

 

「知識や技術を身につけるほど治療が下手になるのは、何に役立てるかが間違っているから。この何にということが本当に重要なのであり、必然性の正体」

 「見て分からないものは、考えたところでわかるはずもない」

 

 

 

この言葉を僕はまだまだ自分の実感として、自分の言葉にできていない。

 

だけど、この言葉にこそ大切な物事の本質があるように感じる。だからこそ彼の言葉は大切にとっておきながら、分かった気にならずに目の前のことに向き合っていきたいと考えている。

 

 

そして、その言葉の意味するところを、赤ちゃんを通じて自分の実感として少しばかり感じたことがあったので、こうしてブログにしてみた。

 

 

 

 

そんな素晴らしい感性を持っている尾森くんを呼んでのワークショップを9月30日に開催します。

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