言葉が届く時
言葉を届ける
言葉がどれだけ相手に作用するかは、本来言葉の持つ意味とは関係がない。
先日のワークショップでも、“相手に向かって”どれだけ言葉を届けることができるか?が全てであるということを体感した。
それと同時に、言葉を受け取る側も“受け取る状態”でなければ、それを自分が受け取ることはできない。
では、その受け取る状態とは何なのか?
それは目的意識の明確さであり、欲求というのが1つではないか。
ワークショップの中で、後ろから羽交い締めにあった状況から目の前の人に握手をしに行くというワークを行った。
この時に大切なのは「前に進むこと」ではなく、「握手をすること」、つまり明確な目的意識である。
そしてそのような状況の相手に対して、目の前で握手を待つ人間は声を届ける。
「コッチだ!!来い!来い!!」
その声が届いた瞬間に、恐ろしいほどのパワーが出る。欲求と、応援する声とが重なった瞬間であった。
声を届ける人間も、生半可な応援では相手に全く作用しない。
誰に向かって言っているのか?
そこには「相手」が存在し、そして「自分の想い」が言葉に乗る。それを人は言霊と言うのかもしれない。知らんけど・・
応援とは
よく「応援してます!」という言葉が社交辞令的に交わされる。この言葉自体には何も具体的な応援は含まれていないだろう。
「応援」とは極めて具体的である。
それは相手の琴線に触れるもの。具体的に相手の何かを動かすもの。相手に作用するものである。
「応援しています」というのは基本的には社交辞令でしかない。応援という抽象的な言葉の中身は、極めて具体であるはず。
僕の高校時代のバスケ部の顧問は、ルーズボールに対して「取れー!!」という指示を出していた。当時は指導者としてあまりにも単純すぎないかと疑問に思ったりもしたが、今思えばこの指示こそが極めて具体的な応援なのかもしれない。
目の前にボールが転がっている。それを取りに行こうとしている自分がいる。その行為にさらに拍車をかけるような、背中を押してくれる言葉。それが応援である。
人を応援することはできない。それを受け取るのは相手であるのだから、自分勝手な応援は相手に作用しない。相手の欲求に重なった、具体的な関係性なのである。
だからこそ、やはり大切なのは相手と向き合うこと。その前提がなければ、実際の対人関係では何も始まらない。
相手と向き合う中で、その関係の中で結果的に相手に何かが届けば、言葉は応援となり相手に届き、相手の持つパワーはさらに発揮されるのかもしれない
言葉から始まる出逢いもある
“相手に向かって”どれだけ言葉を届けることができるか?が全てである
冒頭でもそう言ったけど、最近は自分の経験としてもそれを感じている。
9月に行った対談イベントと先日のワークショップ。
僕は主催者という立場で裏方であったけど、なんと「佐々木さんに会いたくて来ました」と言ってくれた方々がいた。
このブログの読者も少ないし、Twitterも実質のフォロワー数は少ないと思う。
そんな中で、1人でもこうして自分の言葉が誰かに作用して、実際の具体的な行動に結びついたのなら、とても嬉しいこと。
僕自身の発信している言葉自体は自戒の言葉であり、不特定多数の人が見るSNSにおいて、明確な「相手」というのは基本的には自分である。
そんな自分への言葉を受け取ってくれた方々は、潜在的な欲求が自分と似ているのかもしれない。何かしらの感性が自分と似ているのかもしれない。
そんなことを実際にお会いし、お話させていただき強く感じることがあった。物腰の柔らかく、とても芯のしっかりした素敵な方々でした。ありがたい出逢い。
言葉を丁寧に選ぶこと。
そうすることで、同じような感性を持つ人と繋がることもあるのだと感じた。
SNSが当たり前の時代だからこそ言葉大切に。そしてその言葉を通して、何か潜在的に同じような欲求を持つ人との繋がりを大切にしたい。
具体的に相手に届く言葉を。
そのためには相手と、そして自分と向き合える自分を磨いていく必要性を感じる。
ワークショップでは、まだまだ相手を伺おうとしている自分の癖がもろに出た。
自己表現することの不慣れさを感じた。
次々と自分の癖が表れ、現実を見せられ、そして多くのヒントを得られた。
あとはまた試行錯誤して、コツコツやるだけ。
まだまだ伸びしろだらけやー