ささやんブログ

"いま"を醸していく

必然性を

自分より高いレベルの人とプレーをする。

この大切さはスポーツをしていて強く感じたことでもある。

 

僕は学生時代にずっとバスケットボールをしていたのでその経験から例えて言うならば、日頃から上手い人とプレーをしていれば、自分がボールを貰うために必要な運動量や、頭を使って考えなければならないことも必然的に増えてくる。なんとなくプレーしていては、厳しいディフェンスに対してボールを貰うことすらできない。レベルの低い中でプレーしていれば、そんなことはないのだけど。

 

 

つまり自分の能力がどうこうという以前に、どんな環境でプレーをするのかによって、そもそもボールを持ってプレーをするために必要な条件が全然違うということである。プレーするために「運動量」とか「身のこなし」とか「チームでのフォーメーション」とか、様々なことが必要になる。

 

だから必然性に駆られ、そういった能力は自然と高まってくる。でなければボールを持ってプレーすらできないのだから。

 

 

大切なのはこのような「必然性」

いくら個人技を練習をしたところで必然性は生じない。

 

努力をしているつもりになっていても、それは自分勝手な努力でもある。

 

必然性は環境が与えてくれるもの。必然的に取り組んでいるというのは、努力でもなんでもない。それは能動的な取り組みというよりも、受動的な取り組みに近いのではないか。取り組まざる得ない状況であるのだから。

 

 

 

 

成長とは「自ら起こすもの」ではなく、「自ずから起こるもの」なのかもしれない。

 

必然性が生じる。そんな環境に身を置く。

 

 

それによって人は成長せざるを得ないのかもしれない。大切なのはやはり、どんな環境に身を置くかということ。

 

人は環境と調和するのだから。