必然性を
自分より高いレベルの人とプレーをする。
この大切さはスポーツをしていて強く感じたことでもある。
僕は学生時代にずっとバスケットボールをしていたのでその経験から例えて言うならば、日頃から上手い人とプレーをしていれば、自分がボールを貰うために必要な運動量や、頭を使って考えなければならないことも必然的に増えてくる。なんとなくプレーしていては、厳しいディフェンスに対してボールを貰うことすらできない。レベルの低い中でプレーしていれば、そんなことはないのだけど。
つまり自分の能力がどうこうという以前に、どんな環境でプレーをするのかによって、そもそもボールを持ってプレーをするために必要な条件が全然違うということである。プレーするために「運動量」とか「身のこなし」とか「チームでのフォーメーション」とか、様々なことが必要になる。
だから必然性に駆られ、そういった能力は自然と高まってくる。でなければボールを持ってプレーすらできないのだから。
大切なのはこのような「必然性」
いくら個人技を練習をしたところで必然性は生じない。
努力をしているつもりになっていても、それは自分勝手な努力でもある。
必然性は環境が与えてくれるもの。必然的に取り組んでいるというのは、努力でもなんでもない。それは能動的な取り組みというよりも、受動的な取り組みに近いのではないか。取り組まざる得ない状況であるのだから。
成長とは「自ら起こすもの」ではなく、「自ずから起こるもの」なのかもしれない。
必然性が生じる。そんな環境に身を置く。
それによって人は成長せざるを得ないのかもしれない。大切なのはやはり、どんな環境に身を置くかということ。
人は環境と調和するのだから。