信念とは?
さて、ブログの更新を頑張ろうと3年ぶりくらいに思いたったのですが、書くテーマというのは与えてもらえると楽しいし、自分としても書く甲斐があるんじゃないかと・・
ということで、今回から質問を募集することにしました。
頂いた質問から、なるべくブログ記事として考えながら回答できればと思っています。
と言っても、たった今このブログで募集開始したばかりなので質問もまだありません!笑。
なので今回は、4月に頂いた質問に対して改めて再考してみようという企画!(一人で盛り上がってます)
第一弾!
「大切にしている信念ってなんですか?仕事、家庭、人生でそれぞれ大切にしていることを教えてほしいです。」
確かこの時はTwitterで140字以内にまとめようとして簡単な回答をしてしまったので、改めて考えさせていただきたいと思います。
信念とは
まずこの質問に対する回答を考えるのに、言葉の定義をはっきりしておこうと再確認。
信念とは:
1 正しいと信じる自分の考え。「信念を貫き通す」「固い信念」
2 宗教を信じる気持ち。信仰心。
調べるとこのように出てしました。
僕はここでは1の「正しいと信じる自分の考え」という定義で考えていきたい。
と思ったのですが、この定義の言葉自体に少し違和感があったので、改めて定義を見直します。
信念≒美意識: 人が美しいと感じる心の働き。
うん。こっちの方がしっくり来る。
正しいか、正しくないかという問いよりも
美しいか、美しくないかという問いの方が、自分自身が身体感覚として大切にしていることが見えてくる。
正しさという指標には、何か外部に答えがあるというニュアンスを持つような印象があります。正しいの反対は誤り。そんな対立的な考えであるからこそ、正義感から戦争が起こったり悲しい争いが生まれたりするわけですよね。
それに対して美しさという指標は、感性によるもの。すなわち外部に答えなどなく、ただ自分という人間がどう感じるか?だけであると。
だから自分の信念というのは、自分がどういった生き方を美しいと感じているか?と言い換えられるのではないかと考え、このように定義して考えたいと思います。
仕事の信念
仕事は理学療法士として働いているので、ここでは主に臨床についての自分の信念(美学)を書いてみたいと思います。
僕が臨床で大切にしていること。それは「太陽のようなアプローチ」。これは新人時代からずっと意識し続けていたことで、現在も変わりません。
太陽ってなに?と思われた方もいると思いますが、この太陽というのは、童話「北風と太陽」から引用しています。
北風と太陽は皆さんご存知かと思います。
とある旅人の洋服を脱がせるという対決を、北風と太陽がするわけです。
北風は強引に風を吹きかけて剥ぎ取ろうとしますが、旅人は北風の寒さで余計に服を着込んでしまいます。
それに対して太陽は、陽射しを照りつけることで、旅人が自ら服を脱ぐという反応を引き出します。
洋服を脱ぎたくなる環境を作り出すというアプローチです。
つまり北風的アプローチというのは、強引で傲慢なアプローチ。
太陽的アプローチというのは、相手の反応を引き出す環境を整えるアプローチ。
そんなイメージです。
学生時代、臨床実習でお世話になったクリニックの先生方が、「筋は硬くなるべくして硬くなっている」ということを教えてくれました。その教えに感銘を受け、人のすべての反応は適応の結果であると考えるようになりました。
精神科医の神田橋先生の言葉でも「病という概念言語で切り出された事象は、そこに生体恒常生の動きも含んでいる」とありました。
野口整体の野口晴哉先生も「問題は異常ではない。異常を正常と保ち続ける働きが問題」とありました。
これらが指し示すのは「病」とか「異常」と言われる状態は、身体の正常な働きによって起こるということ。つまり起こるべくして起こっているということではないでしょうか?
そのように起こるべくして起きているものを対処療法的にアプローチをしても改善は見込めません。
その「起こるべくして・・」の部分、つまり症状を出させている環境を整える必要があるわけです。
環境が整えば、カラダは勝手に治っていく。人はそのようにできている。
その環境というのは、身体環境かもしれないし、生活環境かもしれない、社会的立場かもしれない。そこをしっかりと知るにはちゃんと向き合うということが必須。この「ちゃんと」ができていないなぁと今でも日々思い知らされてます。。
そんなことを考えながら、太陽的なアプローチをできるように、しっかりと向き合いながら臨床をしていたいと日々思っています。そしてこれは、仕事に限らずすべての場面で大切にしている信念かもしれません。
家庭の信念
家庭の信念ってなんだろ?難しいですね。。
自分が家族に対してなるべく心がけているのは、「何かをしてくれるのを当たり前と思わない」こと。
例えば家事にしても育児にしても「やってくれて当たり前」と思ってしまうことが既に自己中心的な考え方である。
いくら家族であっても自分とは違う他者である以上、僕が勝手に何かを期待しているというのは傲慢なことだと思います。
そんな中で「家事をしてもらうことは当たり前じゃない」と考えると、色々としてもらった時に感謝できる。まぁ毎回そこまでの余裕がないのも事実ですが、ふとありがたいことなのだと思うことがあります。
どうしても家族というと距離感も近いから、価値観を無意識のうちに押し付けあってしまうこともあるけど、あくまでも家族は他人であり自分の価値観とは異なる価値観を持っている。そんな自他の違いを知り、相手の価値観を受け止められる人間になりたいですね。これも家族に限らずですが。
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人生の信念
まだ31歳という青二才であり、何も成し遂げていない一般ピーポーな僕が人生の信念だなんてお題を考えるのも少々気が引けますが・・笑
そのたった31年の人生を振り返った時によーく観察していくと、過ごしてきた時間の中にこそ自分の美学というものは存在するのだと思います。
これからの人生でどんなことを大切にしていきたいか?を頭で考えて言うのもいいのかもしれないし、今大切にしていることを言うのでも良いのかもしれませんが、そうすると綺麗事を言ってしまいそうなので・・
そうではなく、過去を振り返ることで洗い出される事実を抽出してしてみたい。
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チンッ💡
今、31年間の自分の人生を振り返りました。
おそらく僕はこれまでの人生で、バランスを取る役割を無意識的にやってきたのではないかと思う。
リーダーがいない場ではリーダーシップを取る。
個性が強い人たちの中に混ざれば、おとなしく一歩引く。
良い言い方をすれば、全体の調和を取ろうとすること。その時、その場所で自分に何が求められているのか?確固たる自分がいるのではなく、相手に合わせた自分でありたい。
そんな美学がこれまでにもあったのだろうと気付いた。
バスケをしていた時も、ポジションは3番か4番。中でも外でも、その時の状況に合わせてというプレースタイルではあった。
個人的にはスポーツ選手でもそんなユーティリティープレーヤーが好き。
理学療法士としても、何かのスペシャリストである前に、ジェネラリストでありたい。
一つの治療技術に長けるよりも、鑑別診断力をしっかりと身につけて相手に合わせた介入ができること。
これは言葉で言うのは簡単ですが、実際は相当難しい。
しかし、そこに美学を感じている。
少し話が変わってしまったけれど、大前提として僕が思うのは
「人間は社会的な生き物である」ということ。
人と人との関係の中で生きている。
自分自身の存在意義というのは、関係の中で決定されるのだから、やはり今後も僕は「相手にとっての自分」「社会にとっての自分」という存在意義を考えながら、調和をもたらせるような役割を担える人間になる。そんな人生を送っていきたいと思う。
これにて第1回の質問箱回答祭りは終了!
考えるきっかけをもらえるのはありがたいことです。ここまで深く自分の信念について考えたこともなかったので(そんな深くなくてごめんなさい)
ということで質問募集しているので、ぜひ何か質問を送ってください!