地図と土地は別物
先日、エモリハさんという療法士向けのセミナー団体で講師をさせていただいた。
エモリハ代表の加藤さんとは2015年のリアル臨床がきっかけで知り合うことになった。
この時は僕も加藤さんも初めて演題を出して、一緒に仲良く祝3位入賞。その時を共有させていただいたことで何かシンパシーを感じたのか、お互いが相手に対する興味を持ち、共通の知人を通じたりSNSを通して交流し、今回のセミナーという一つの企画に繋がった。ありがたい!
知識というフィルター
セミナー資料を作りながら、改めて日々の臨床を振り返るきっかけを頂いた。
最近はブログもあまり更新しておらず、以前よりも日々の考えを整理する機会もなくなっていたので良い機会となった。
さて、理学療法士として日々人の身体に触れていると本当に多くのことを感じとれるわけで、そこからまた考えさせられることが尽きなかったと振り返って思うのです。
僕がオステオパシーを学ぶようになったのも、患者さんに触れた時の「感じ」がきっかけ。1年目の頃はバイオメカニクスが大好きで、運動連鎖や姿勢制御などの勉強を中心に臨床をしていた。
だけどある時、とある患者さんに触れていて「これなんかおかしいな」という印象を持った。何か質感が違う。なんとなく自律神経由来っぽい??ナンダコレハ・・・
勉強して引き出しに入っていた既存の知識では解釈できない。そこで必要だと思い、新たにオステオパシーを学ぶ入り口に立ったのであった。
「触れて感じる」というのは、何を感じているのかと言うと、それはクオリアと呼ばれるものを指します。クオリアと言語との間には必ずギャップがあるので、自分の感じたソレを既存の言葉(知識)に当てはめてはいけないのです。
日々人を触れる中で大切にしていきたいのはここ。触れた印象を既存の知識に当てはめようとしないことです。
適切な比喩表現ではないかもしれないけど、「地図と土地は別物」という言葉があります。
「解剖学」という単なる構造の位置関係を確認するために触れているだけでは、構造が正確な位置に「触れられるか触れられないか」というどちらかの判断にしかならない。
これは単純に、その土地へ足を運び「地図通りに建物があり、道が通っているか」を確認しているだけに過ぎません。地図通りであれば正解。何かが違っていたら不正解という非常にわかりやすい構図。
このような技術を持っていても、そこから何か新たに気付くことはできない。
そこで我々セラピストは、この「解剖学的」という視点からさらに「硬さ・組織の緊張」などを確認して判断の材料としています。
これは言うなれば、その土地の建物の老朽化が進んでいないか?道路が陥没したり亀裂が走っていないか?といったものを確認しているわけです。
さて、地図通りにその土地を歩き、その土地の建物や道路の状態を確認することは「その土地を知る」ことになるのでしょうか?
「いや、違う!」と僕は思います。
これらはものすごく部分的な情報にはなりますが、その土地を知ることにはならないのです。
だって道路修繕の予算を立てるのには必要な情報でしょうが、その土地が本当に何を求めているのか?道路の修繕が本当に求められることなのか?という問いには何の役にも立たないですよね。
これらは「道路の修繕」という事業が成り立っていることからこそ見えるひとつの視点であり、この事業ありきで捉えた非常に自分勝手なその土地の問題点になります。
そして人の体に触れるというのも、同じようなことが言えます。
「解剖学」や「生理学」
これら学問として成り立つものをベースに教育がなされているため、「位置関係」や「組織の緊張状態」を捉えようという思考過程に無意識的に陥るのかもしれません。
しかしそれは「解剖学的に見た」とか「筋緊張は」というような一つの学問ベースの立場から見た視点であり、それによって「その人」を知ることにはならないわけです。もちろんこのこと自体を否定するつとりはありませんが。
ではどうしたらいいか?
それは触れて感じたものを、無理に解釈しないようにすることが大切だと思います。
「 解釈しよう」という態度で触れば、それは知識として自分が知りうる部分的な情報にのみフォーカスすることになります。
すると相手を知るために行う評価そのものが、部分的な手法に規定されてくる。その評価手法によって知れる「相手」は、「その評価手法によって知れる相手」なのです。これは相手そのものではありません。
言葉遊びのようになっていますがそうでしょう?
もちろんどうあがいても自分のフィルターを介さずに認識することはできないので、「その人そのもの」を知ることなどできないのですが、大切なのは相手と関わる上での自身の態度だと思うのです。
論理的より味わいを
論理的思考というのは一見、問題点を把握し解決するために重要な方法のように思えますが、方法というものは何かしらの前提条件が成立してこそ発揮するものです。
そう考えると、不確定要素の多いものを対象とした場合は前提条件も成立しないケースがほとんどであり、あまり役に立ちません。
筋肉の状態を知りたければ筋肉の触診をする意義はありそうですが、人を知りたい場合に筋肉の触診をしたところで、それは人の構成要素のほんの一部しか知りえないわけです。
「そんなことわかってるよボケ!!」という罵声が聞こえてきそうですが、このようにな触診手法にこだわっていては、いつまで経っても「自分の知りうる知識」そして「科学的に解明されている理論」という枠からはみ出た情報をキャッチすることはできません。
地図を見てその土地の道路や建物の情報は分かっても、実際に土地に行かないと分からないものにこそ「その土地を知る」上で大切なものが詰まっています。
それは、その土地の風の香りとか商店街の活気とか人の雰囲気など、決して記号化できるようなものではないかもしれません。
引き出しを増やすことも大切かもしれませんが、引き出しを増やすには、その引き出しを増やす必然性を感じられることがまず先ではないでしょうか?
その必然性を感じられる感性が備わっていないのに、引き出しだけ増やしても実際の現場では使えません。
決して知識はいらないと言っているわけではないのだけど、何のための知識なのか?そこを汲み取れるだけの感性が大切だと思うのです。
いろいろ書きましたが、こうしてブログを書くことでも自分の考えは整理されるのでいいものです。また書いていこう。
エモリハの皆様、受講生の皆様
改めてありがとうございました!