自己否定の必要性
理学療法を実施する上で、最も大切なことは何か?
そう問われれば僕はまず「理学療法が適応かどうかを見極めること」であると思う。
レッドフラッグでないか?
理学療法でどこまで改善が見込めるのか?
どこが限界なのか?
もちろん自分一人での判断は難しい。
医療職として、他職種との連携を前提とした判断が求められる。
そして、そもそも理学療法とは何か?という問いが生まれる。
徒手療法・運動療法・物理療法・・・様々な治療技術が理学療法として存在し、私たちはそれを患者さんに提供しながら、患者さんがその人らしい生活を送れる状態を目指すのである。
どんなに崇高な学術に基づいたエビデンスであっても、それは目の前の患者さんにとって役立つかなど分からないし、無力である。
重要なのは患者さんと向き合い、何が問題となっているのかを見極め、その上でエビデンスを適切に扱えること、またエビデンスがなくとも適切な介入ができることである。
適切という表現を用いたが、適切というのはもちろん患者さんにとってであり、患者さんのHOPEを達成するために相応しい介入ということである。
よく「治療は成功したが、患者は死んだ」という表現が用いられることがある。
これは物理的な死という意味だけでなく、QOLという観点からの死を意味することもあるのではないだろうか。そこは個々の主観であり、科学的に解明することは不可能であり、患者さん本人が置いてけぼりにされていないかをよく考える必要がある。
セラピストの介入によって、患者さんの何が変わったのか?逆に何が変わっていないのか?変わった部分にだけ目を向け、「良くなりました」というのは大変な自己満足ではないだろうか。
人は自分の考えを否定されることを嫌うし、自らを否定することも嫌う。
安全を求めたい。認められたい。そういった欲求は誰にでも共通している。
しかし自己否定を繰り返さずに、いかに自分の考えを深めることができるのか。
臨床においても、自分の推論というものをどれだけ批判的に捉えられるかは重要だ。
一つの評価から一つの結論を導くことはできない。
必ず他の評価結果と統合して、信頼性を高めていく。
筋肉が硬いから痛みが出ているわけではない。触診だけで痛みの原因を判断することなどできない。
自分の評価結果や考え方・解釈を疑うこと。そのためには現象を1つの理論に当てはめずに、様々な角度から検証していくことが求められる。
自分自身が習得した知識や技術、自分が過去に経験し奏功した事例など、先入観が先行し自分の仮説に当てはめて解釈したくなるものである。
そして自分自身の仮説に賛同してくれる意見や、それを後押ししてくれる論文ばかりを受け入れ、その結果患者さんからの大切なサインを見落としてはいないだろうか。
くだらない派閥争いも
何かを一括りにして概念化した言い争いも
きっと「分かっている人」は相手にしていないし、「分かっていない人」がムキになって言い争っているだけ。
そして情報弱者と言われる人たちは翻弄される。
情報弱者というのは、情報に疎いのではなくて、自ら考えることのできない人のこと。
今の時代はこの差がどんどん大きくなっている。
情報が出回らない時代は、自ら考えて選択するしかなかった。
しかしこれだけ情報にさらされる時代において、自分がいかにその情報を扱えるのかが重要であることは言うまでもない。
結局は「自分」をいかに成長させていくか?であり、そのためには批判的に自分を俯瞰して捉え、自己否定し、次の一歩を歩み出すしかないのだろうと思う。