ささやんブログ

"いま"を醸していく

天気とヒトを予測する

最近は天気予報をめっきり見なくなった。

 
 お気に入りのお天気お姉さんがいないというのが最たる理由であるが、天気予報よりも自分の感覚の方が当たるだろうという過剰な自意識からである。
 
 そんなひねくれた考えに行き着いたのも、天気予報が外れるからに他ならない。 
「なんで雨降ってるねん!雨降りそうって思ってたけど、天気予報で降らないって言ってたから傘持ってないし!!」 そんな風に責任転嫁してしまう自分を戒めるためにも、“すべては自己責任!今日から天気予報を見るのはやめよう!” 
 
そんな動機があったわけでもないのだけど、いつからか気付いたら見なくなっていた。
 
 
 「気付いたら〇〇をしていた」とか「気付いたら〇〇をやめていた」というのは結構恐ろしいことですよね。自覚がないのに行動が変わっている。人間は思っているよりも主体的でない生き物。「自分の考え」なんてものは周りの人の考えとか環境で作られていくのであり、そして人生は主体的であると思っていてもほとんどの行動は無意識に自動的に選択されていくのである。あぁ、環境に生かされているんだ。
 
 
 しかし、ということはだな。素敵な環境を構築できれば人間の行動変容を良い方向に促すこともできるわけである。これがアフォーダンス的環境であり、僕が今後力を入れて取り組んでいきたいこと。
そう。こういうのやりたいの。 
 
徒手的なアプローチが必要な人もいれば、運動療法が必要な人もいる。しかしもっと抽象的に見れば、環境が人に与える影響という視点は健康的に生きていくのに必要だと。 現に人付き合いや環境が寿命に与える影響は最も大きいという研究結果もあるんです。 
 そうやって人が楽しく過ごせる環境を構築していく中で、本当に医療的処置が必要な人と、医療がなくても健康になっていける人とに分けれるという側面もあるんじゃないか。これができれば、理学療法士の職域を広げるのではなく、理学療法士の必要性を作り出すというアプローチにもなる。必要な人に、必要だということを気付いてもらうということ。 
 
 
 まぁかなり話がそれたけど、そんなこんなで僕は天気予報を見なくなっていた。(急激なUターンで天気の話題に戻ってきました) 
天気予報を見なくなった結果、思いもよらぬ雨に打たれたこともしばしば・・ 周りから「えっ、傘持ってないの?今日降るって言ってたじゃん」と言われることもしばしば。
 
 なぜ天気予報は当たらないのか?特にiphoneの天気予報はもはやギャグとしか思えない珍予報を連発する。#iphoneあるある 
 
 というか天気予報とは何なのか?これまで散々天気予報というワードを使っていたにもかかわらず、天気予報が何かを知らない自分に気づいた。自分を客観的に捉えるとツッコミをれずにいられない。メタ認知。 
 
 
天気予報は毎朝3時頃から、日本天気予報協会の本部で開催される「本日の天気予報会議」によって、理事の多数決で天気予報が決まっているのか?
 
 神様の気まぐれなのか?神からのお告げを聞ける※1グリーンウェル的な人が日本天気予報協会のトップに君臨していて、神からのお告げで天気予報が決まるのか? (※日本天気予報協会など存在しません)(※1グリーンウェル) 
わからない。天気予報ってどうなっているんだ?どうやって「天気」を「予報」するんだ。「天気」というのは「天」の「気」だ。やはり神様の気分的な何かなのか?教えておかぁサァァァァーーッン!! 
 
 
 さて、行き詰まった時は前提をひっくり返して考えることが大切。 天気予報が当たるor外れるというのは、天気が予報できる対象物であるという前提で成り立っている。
 
では前提をひっくり返すと、そもそも天気とは予報できるものなのか?ということになる。
ここで僕は初めて思った。 「天気予報の仕組みって簡単に調べられるんじゃないか?今は2018年。情報社会と言われてもう何年も経つ。Google先生に聞けばきっと5秒で答えは出るはず」
 
昔であれば、国立天気予報図書館っぽいところへ行き、分厚い本を何冊も取り出して半日がかりで調べる必要があったかもしれない。 でも今は片手でピピット。スマホ一台で楽して年収1000万稼げる時代らしいですから、天気予報についても楽して調べられるはずだ!!
 
ということで5秒で調べてみると

全国各地に設置されているアメダス(地域気象観測システム)から降水量や気温、風向、風速、日照時間などのデータを元に、気象衛星「ひまわり」や最新のスーパーコンピュータを使って、気圧の分析などを行うことで天気を予測している。

 

ということ。 誤差とかめっちゃ出そうやん!!と直感的に思いませんか?
スーパーコンピューターがスーパー正確であったとしても、入力した値がわずかに違えば、きっとその僅かな誤差で「予報」という解は大きく変わってくるはず。 それがスーパーコンピューターを使わないと予報できないほどに複雑な計算式の宿命なのである。
誤差はコンピューターで起こるんじゃない。入力で起こるんや!
 
 

自然は複雑

 
カオス理論という言葉を聞いたことのある人も少なくない。いや、少ない?
カオスとは混沌という意味で、良く「カオスな光景www」などと見かけることがある。
 
カオス理論というのは、複雑になりすぎると未来は予測できないよーっていう理論。 単純なシステムは、解を出すのに難しくない。それに対して複雑なシステムは解を出すのは不可能に近いよっていう話。
 
あなたの目の前に男性が3人、女性が2人いたとする。 今、あなたの前に何人いますか?
3+2は5である。だから目の前の人は5人。単純。
 
 
しかしこれが「あなたの目の前にいる人の中で、明日も健康な人は何人ですか?」となると、超複雑になる。
 
「明日」という条件と「健康」という条件には様々な要因が絡んでくるからだ。
 
この男の人は病弱そうだから、明日は風邪をひいてるかもしれない・・
そもそも今すでに体調悪いんじゃない?
というか交通事故に遭う可能性は誰にだってゼロじゃないよな・・・
えっ、健康の定義って何??
 
そう考えると明日のことすら予測できない。
現在の健康状態や生活環境をしっかり調査した上で統計を集めれば、確率的には予測を出せるのかもしれない。
でもその予測の数値はあくまでも予測の数値という枠を超えることはない。
では1週間後は?1年後は? もうどんどん複雑になっていく。今の健康状態のちょっとした差が、明日には影響がなくても10年後には凄まじい差となっているかもしれない。途中で生活習慣がガラッと変わる可能性だってある。
 
「予期せぬこと」が起こるなんていうのは、自然界では当たり前のことだ。 こんな風に、自然界というのは複雑な相互関係の中で成り立つものである。
科学を用いれば、単純なシステムにおいて、その相関関係の傾向を知ることはできる。 しかし複雑系の中ではそれを用いるのは非常に難易度の高いこと。 人間を相手にする僕らの仕事は、そんな複雑系の自然を相手にしているとも言える。
 
それを分からずに単純な理論を人間に当てはめる人がなんと多いことか・・ 特に専門家はタチが悪い。自分が得意とする分野や自分が提唱している理論などをすべての事象に当てはめようとする。
例えば栄養学ですべてを解釈しようとする人に「脚に痺れがあるんです」と相談すれば「ビタミンB12を摂れば治るよ」という人が一定数いるし、 腰椎の専門医に相談すれば、「腰のヘルニアからきてる」という人もまだまだ多い印象。(全然違うやん!みたいなこともありますよね)
 
科学が発展して、様々なことが研究されて分かってきても、結局「自然界」のことはほとんどが分からないまま。 まだまだ自分の解釈におさまらないことが沢山ある。そんな謙虚な姿勢で、目の前の現象に向き合うことが大切だと思うわけです。
 
くだらないこと書きすぎて長くなったので、続きはまた今後。