ささやんブログ

"いま"を醸していく

余白をつくる

 2018年になりました。今年もまたよろしくお願い致します。

新年になると「今年の抱負」というものを考えてみたり、また敢えて考える必要はないと言ったりと様々な人がいますが、僕自身は新年に目標を立てたり何かを決意してもその通りに行くことはほとんどなかったし、何かそこに窮屈感を感じるといった経験があるので、具体的な目標は数年前から立てなくなりました。

だけど抽象度を上げて、自分がどう行動を選択していくかという指針はある程度決めておく方が、なりたい自分を創っていくためには必要と思います。

どんな自分になりたいのか?どのように社会と関わっていきたいのか?じゃあ今はどういう選択をする時期なのか?

抽象的であっても、そのイメージによって選択すべき行動は変わるのではないでしょうか。

行動はその指針に基づいた基準で選択していくのがベター。それは“自分自身の癖”というのは何かしらの意図を持たなければ中々変えることはできないから。というか何かを変えなければ気付くことさえ難しいもの。何も意図を持たなければ、結局はこれまで通りの自分です。(もちろん環境の変化などの影響を受けて、意図を持たなくとも自分の選択が変わることはあります)

ということで僕の今年の指針は「自分が変わる選択をすること」としたいと思います。めっちゃ抽象的!

 

好きとは何か

これは先日、会話の中からふと思ったのですが「好きな色は何色?」と聞かれて、皆さんはなんて答えますか?

こんな質問は大人になってからはあまりされないかもしれませんが、では「好きな食べ物は何?」という質問だったらどうでしょうか?皆さんも聞かれることはあるのではないでしょうか?

 

僕は学生時代には自己紹介などで「好きな食べ物はラーメンです」とか言ったりしましたが、改めて自分の好きな色や好きな食べ物というものを考えてみると、実際「そんなものはない」というふうにも思うのです。

 

昨夏に2〜3か月ほど糖質制限というものに取り組みまして、それまで食べまくっていたラーメンから一時期強制的に距離を置きました。(糖質制限の是非はともかく)すると、その後糖質制限をやめてもラーメンを食べたいと一切思わなくなったのです。

それまで週1〜2回は必ず食べていたラーメン。学生時代は非公式ラーメンサークルを立ち上げ、よく渋谷、原宿、恵比寿あたりのラーメンを食べ歩きしていた“ラーメン好き”の僕ですが、実はラーメンが好きではなかったのかもしれないと気付きました。ラーメンが好きなのではなく、ラーメン好きな自分を設定していたのだと・・・

 

そこで改めて「好きとは何か?」を考えるようになりました。

辞書によると好きとは「心惹かれること。気に入ること」と書かれています。つまり心の反応が「好き」の中身であり、そこには何かしらの情動が伴うはずなのではと思いました。

では人は好きだと思っているものに対して「心惹かれる体験」をしているのでしょうか?確かに心惹かれるラーメンに出会ったことはあります。美味しくて感動するラーメンを食べたこともあります。水道橋にある「かぐら屋」さんとか初めて食べた時は感動したのを覚えています。

その初めて食べた時は思わず笑ってしまうほどの感情の揺さぶりが起こり、心惹かれて「このラーメン好きだ」と感じたのでしょう。だけど、それが2回目以降も続くかと言われると微妙なところ。人間の感情は様々な要因が重なり合って沸き起こるものですから「あれ?前回の方が美味しく感じたのに」と思うことも多々あるわけですね。

しかし2回目の時はあまり美味しく感じなくても、そこのラーメン屋さんに対するインパクトから「そこのラーメンが好き」と思い続けているということはよくあるのではないでしょうか?

 

こんなように「好き」「好きだと思っている」に分けて考えるようにすると、ほとんどのものは「好きだと思っている」ということになるはずです。なぜなら「好き」というのは心の反応・情動が伴うわけで、現在進行形「好きなう!」なわけです。子供の頃に好きな女の子のことばかり考えていて、心拍数が高まっているあの状態が「好き」という状態なのだと。その状態って長続きします?

 

「好きな色は何色?」という質問は子供の頃によく受けた質問ですが、その時々でテキトーに返答していた記憶があります。好きな色などなかったから。だけど「自分はピンクが好きだ!」と言ってピンクの服ばかり着ている人もいますが、それはピンクが好きなのではなく「ピンクが好きな自分」を作っているだけなんじゃないかとも思うわけです。分からないけど。教えて林家ペーパーさん!!

 

自分は何者か

なんだかゴチャゴチャ書いていますが、今年の指針「自分が変わる選択をすること」というのは、つまり意識的に“自分が選ばないであろう行動”を選んでみるということです。「目的」とか「理由」に縛られず、あえて新しくこれまでと違った何かを選択していくということ。

 

それは昨年「ラーメンをやめる」という選択から「ラーメンが好きだと思っていただけ」ということに気付くことができたから。これも「ラーメンをやめる」という目的があってやめたのではなく「糖質制限副次的な結果、ラーメンから離れただけ」で、目的はそこではなかったわけです。その行動の副産物として、ラーメンを食べなくなった分の選択肢が僕には増えたのです。つまり余白ができたということ。

 

くだらない話のようですが、これって生活の中でかなり重要なことだと思うのです。「自分はこういう人間だ」と規定した時点で、その枠の外には一歩も踏み出すことができなくなる。一歩踏み出さなければ、自分自身の立ち位置というのは見えてこない。

自分が何者であるかを知るためには、色とりどりなものと積極的に接触し、変化していくことでしか「自分なるもの」は見えてきません。思いこんでいた自分像を手放すことで余白が生まれます。つまり可能性が生じると思うんです。

 

もう30歳と捉えるか、まだ30歳と捉えるか。人間的にはまだまだ未熟な年齢です。様々な価値観に触れながら、「自分なるもの」を見ていく1年にしていきたいと思っています。その中で本当に「好き」なものもまた見えてくるでしょう。