ささやんブログ

"いま"を醸していく

自分を生きる

こんにちは。ささやんです。

 

今日は大晦日ですね。

というありきたりな導入からブログを書き始めていますが、こういう時期って今現在の状況を見つめ直すという意味では良い時期だとも思います。仕事も休みだし。実際には「キリがいい」とか関係なく常に自分自身を振り返り、向き合い続けることが必要なんでしょうけど、そう自分に厳しくはいかないのが人間。(言い訳です。)

 

ということで大晦日なので今年を振り返りながら、今の自分自身の状況を改めて見つめ直して自分の課題を浮き彫りにしたいと思います。公開羞恥プレイ。

 

6月1日法人設立

今年1年の環境の変化としては、NPO法人presentsの設立というイベントが一番大きかったかなと思います。(以前のブログを読んでいただくと、どういう経緯で法人設立をしたのかということが書いてあります。上手く言語化できていないけど)

ameblo.jp

 

と言っても設立したら自分自身が何か変わったかというと、そこは変わりません。当たり前だけど。

 

例えばどこの大学に入学したとか、どこの大学院で博士をとったとか、こんな資格を持っているとか、こんな表彰をされたとか・・・

そういう出来事(人生におけるイベント)自体には何も意味などないわけです。例えば最近話題の落合陽一さんが開成高校から筑波大を出て、東大の大学院を出ている。様々な場所で受賞歴も多い。これ自体は本当想像できないくらいすごいことなんですけど、じゃあみんな同じ学歴を持っていれば同じようになれるのか?と言われれば当たり前だけど「違う」わけですよね。

大切なのは「どのような経験をしてきたか?」ではなく「経験した出来事とどのように向き合ったのか?」です。東大を出たからすごいのではなく、東大に入学するまでの動機付けとなる経験や、そこでの自分自身との向き合い方がその人を成長させてくれるんでしょう。

 

そう考えると、NPO法人を設立したというのは実際には何も自分自身に変化をもたらしていないわけです。唯一言えるとすれば、活動する環境が整ったということだけ。

設立してから今日までの活動自体よりも、先ほど紹介した過去のブログに書いたような「設立するまでの経緯」となった葛藤の方が自分自身を成長させてくれたのかなと感じます。

 

思い通りに成長など起こらない

今、"葛藤が自分自身を成長させてくれたのかなと感じる"と書きましたが、これも振り返ればそうだったと感じるだけです。当時はその葛藤が今のようなNPOの活動に繋がるだなんて1ミリも思ってもいなかった。ただただ「治療家」を目指して、一人でも多くの自分の担当患者さんを治せるようにという思いを持って、ひたすら自分自身と向き合っていた時期でした。

「治療家になる」という思いがあったにも関わらず、そこに向けて取り組んだ結果今がある(今は治療家を目指してはいません)この文章をパッと見た感じ「挫折した」とか「軸がぶれてる」とか「フワフワしてる」とかネガティブな印象を持つ人もいるかもしれません。

だけど振り返れば、どう考えてもその時の葛藤がなければ今の自分はありえないんですよね。自分と同じように治療家を目指して同じように葛藤を抱えてる人でも、それぞれ進む道は変わってきます。凄まじい努力を重ねて素晴らしい治療家として活躍している人も何人か知っていますし、一見全然違う分野で働く人もいます。

 

僕は思い通りに成長など起こらないだろうと思います。子供の頃の夢を叶えるというのも素晴らしいことだけど、それはあくまでも職業という手段を子供の頃に描いていた通りに使っているだけです。子供の頃に考えていたような自分にそのままなっている人なんていないでしょう?

全てが思い通りに行くというのは、何にも影響を受けていないと言うこと。影響を受けないと言うのは、社会との関わりがないということ。そんなことってあるのだろうか?

人それぞれ社会との関わり方は違う。家族、職場、交友関係、住んでいる地域・・・何から何まで違うのだから、当然自分がどのように社会から影響を受けるのかは人それぞれ全然違ってくるわけです。

僕自身は「理学療法士」という職業を通して社会との接点を持っているけれど、理学療法士という職種を一括りにして「将来はこういうセラピストになることが求められる」とか「理学療法士にとって成長に必要なのはこれだ!」みたいなものってありえないわけです。巷には多くのセミナーがあり、やれ成長だのやれ技術を高めろだのやれ研究しろだの言われていますが、それは他人の成功体験から生じる価値観の押し付けです。大きなお世話なわけですね。(大きなお世話は非常に貴重で大切なことですよ)

 

もちろん研究や研鑽を通して自分自身の成長に繋がるということはありますが、繋がらないこともあります。僕自身も先ほど言ったように、技術を高めるための取り組みや葛藤が自分自身を成長させえくれたのだと“今振り返れば”感じるわけです。

つまり研究にしても技術の研鑽にしても、それ自体がどう自分自身の成長に繋がるかというものは分からないんです。もちろん何もしなければ何も変わらないので、とりあえず何かに取り組むことは大切です。研究して何らかの成果が出たという実績は社会にとっては有益ですが、その実績が自分自身の一つのステータスというように捉えてしまうことは非常に脆いものです。

甲子園で活躍しても、社会人になり逮捕されてしまう人もいれば(あぁ我が母校のあの人)、地方の1回戦負けのチームでもその後プロになり活躍する人もいます。

実績がその後の人生でどう影響するかなんて誰にも分からないけど、物事に対する取り組み方は必ずその後の人生に影響してきます。

 

何を達成するかより、どのような問いを持つのか

ということで大切なのは目の前の出来事にどのように取り組むかです。資格や実績というのはあくまでも結果的な飾りであり、大切なのはその過程でどれだけ自分の頭で考えて工夫をするかです。もちろん取り組んだ先に実績が伴う場合もありますが、すぐには伴わない場合も多々あるわけです。

例えば部活などで目的の分からない練習メニューがあったとします。僕が学生の頃なんかは文句を垂らしながらとりあえず言われたことをこなしているだけの人間でした。しかしトレーナー活動などを通して素晴らしい学生と多く出会うことができたのですが、彼らは練習メニューを言われたままこなすということはしません。

まず前提を疑います。このメニューは何のためにやるのか?必要あるのか?場合によってはコーチに直談判する選手もいました。今の時期はそのメニューが適していないのではないかと。

そしてメニューを行うときには必ず彼らは工夫をします。自分自身の課題を持って、一つの単調な練習にもいくつもの課題や目的を自分で設定するのです。言われたことだけをやるのではなく、言われたことは勿論やろうとしますが自分の頭でそれ以上に考えを深めて練習に取り組みます。

そうすることでまた新たな課題に彼らは気付きます。視点が変わるのです。成長とは「何かができるようになること」ではなく「視点が変わること(選択肢が増えること)」だと僕は思うのですが、成長すればするほど新たな葛藤が生じ続けるわけです。

 

人生のゴールが何か資格を取ることであるとしたら、資格を取った時点で「自分は素晴らしい人生を歩めた。成長したな」と思えるかもしれないし、そう思うことは勝手です。

だけどそんなことはないでしょう。将来どうなるかなんて分からないし、一生懸命取った資格が全く意味がなくなることだってあれば、生半可な気持ちで取った資格が非常に役に立つこともあります。そんなのどうなるかなんて分からない。未来は予測できないし、他人の成功体験はあくまで他人の成功体験なだけです。これをすれば人生上手くいく!というような万人に共通の生き方なんてないでしょう。

 

自分の人生は自分の人生。

他人から色々言われることもあるかもしれません。皆それぞれ異なる価値観を持っており、その価値観を押し付ける人もいます。

だけど自分の人生、自分が自分にならないで誰が自分になるのでしょうか?他人の人生を生きているわけではないのだから、自分の感性に耳を傾けて生きるのが楽しいのではないでしょうか?

これが僕の価値観の押しつけです。

 

なんかこの記事も振り返るとか言いながら、当初のイメージとだいぶ離れた着地点に到達しています。でもまぁそういうのが人生なんじゃないかと思っています。(言い訳)

思った通りの記事を書くのも大切なスキルだけれど、自分を創りあげていくには計画通りに進むだけでなく、その時に感じたもの、出会った人、立ちはだかった壁にどう向き合うのか?その時の判断基準はあくまでも「正解探し」ではなく「美学」である必要があるのだと思います。

 

 

自分を生きるというのは、正しさよりも美しさを尊重していくこと。

来年はより自分の感性を大切にしていきたいと思う。

 

 

長々とお読みいただきありがとうございました。